金沢のタイガース遠征史


タイガースの北陸遠征は1946年7月13日14日の金沢の試合が最初だ。
当時、北陸地方には本格的な野球場がなかった。金沢での試合は公設グラウンドと呼ばれていた陸上競技場で行った。

1946年7月13日 タイガース9−4ゴールドスター
       勝 御園生  敗 内藤  本 御園生・藤村
1946年7月14日 タイガース17−11グレートリング
       勝 渡辺誠  敗 円山  本 御園生・渡辺誠・土井垣・本堂

金沢の公設グラウンドは写真の陸上競技場だ。(写真は国土交通省航空写真より抜粋 1975年頃の撮影ため写真ではトラックを改装してある。1946年当時は土のグラウンドだった)
野球を観戦するスタンド設備はなく 観客席とグラウンドを鉄線1本で区切っただけだった。またレフトに比べてライトは狭かった。
7月13日の試合では右翼・富樫淳が7回に内藤の大飛球を追い、背走して捕球した直後に鉄線に腹部を打ち付けて負傷退場するアクシデントがおこった。富樫は翌日の試合を欠場し、前日完投勝利した御園生が右翼の守備についた。
7月14日の試合はタイガース33塁打、グレートリング29塁打 合計62塁打という塁打新記録を作った乱打戦。この北陸遠征の直前の後楽園の試合で日刊スポーツ・高山方明が「ダイナマイト打線」と名付けたが、まさにそのダイナマイトが炸裂して打ち勝った試合だった。
陸上競技場での野球開催、当時では野球場のない町ではまだ当たり前だったが、富樫の事故は波紋をよんだ。折りしも石川国体が迫り。新球場の建設の後押しになった。

日本3大庭園のひとつ・兼六園の南端、旧日本陸軍の出羽町練兵場だった場所は終戦とともに21000平方メートルにも及ぶ跡地となった。石川国体の開催が決定し、ここに野球場を建設する事が決まった。
1947年10月27日、北陸初の本格的野球場「金沢・兼六園野球場」が完成した。

タイガースの試合は 1948年の北陸遠征が初めて。
この北陸3連戦は福井・金沢・富山の予定だったが、6月28日に起こった福井地震のために2連戦に変更された。

1948年7月18日 タイガース5−4南海
             勝 梶岡  敗 中原  本 後藤次

以後、下記の合計14試合が開催された。
50年6月21日、8月16日、51年5月23日、52年5月14日(2試合)、53年4月29日(2試合)、55年5月3日(2試合)
58年10月12日(2試合)、65年4月25日、67年4月22日 

この球場は狭くてホームランが出やすかったが、タイガースは14試合で本塁打7本と多いわけではない。
スタンドは木造で老朽化が早かった。駐車場がない事もあり、球場は石川県立野球場へ移転。
現在は跡地に石川厚生年金会館が建っている。ブログ

73年に閉鎖された兼六園球場に代わって建てられたのが石川県立野球場
田んぼの真ん中。しかし駐車場は十分あり、道路のアクセスもよく、民家からも遠い。しかも広い という事で 兼六園球場の問題点をすべて解決した球場だった。
ただ、駅からは40分かかるので、車を持つ地元の人にはいいのだが、電車で遠征観戦となると限りなく遠い気持ちにさせられる球場。

タイガースは1976年4月17・18日の2連戦からこの球場を使用している。
1976年4月17日 タイガース9−3大洋
           勝 江本   敗 平松
1976年4月18日 タイガース19−4大洋
           勝 谷村   敗 奥江 本 ラインバック・藤田平・掛布
1976年は開幕直後のこの時点で7勝1敗2分、しかも11連勝の真っ只中で断トツの首位、「今年こそ優勝」と思わせた金沢だった。(結果はシーズン2位)

以後は
78年5月17日、80年6月11日、82年5月11日12日、84年5月9日10日、87年7月7日8日9日、88年5月10日11日
92年5月12日、93年5月18日19日、94年7月1日、95年5月30日、97年7月1日、98年5月13日、99年5月26日
01年5月24日 23試合が開催された。
富山・福井や岐阜などとの兼ね合いで不規則な開催の上、梅雨時期が多くて雨のために流れる事もある。

国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省  http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/

制定:2008年

げんまつWEBタイガース歴史研究室