館林町・分福球場


群馬県館林市に茂林寺というお寺があり、この寺には古くから茶釜が祭られています。「ぶんぷく茶釜」は、茂林寺の茶釜に因んだむかし話童話。
親子3匹のタヌキは食べるものがなかった。父親タヌキは自分が茶釜に化けて道具屋に売られる事でお金を手に入れ母ダヌキと子供が豊かに暮らせるように、と考えました。茶釜に化けたタヌキを茂林寺の和尚さんが買い入れて火にかけると、茶釜が「熱い!」と大騒ぎするお話です。
東武伊勢崎線で館林駅のひとつ手前にある茂林寺前駅には親子三匹のタヌキの像が飾られています。駅から茂林寺までは徒歩数分です。

この町で、職業野球創生時代に野球の試合が行われていました。それが今はなき館林・分福球場です。
(航空写真 国土地理院による航空写真 1947年群馬)
東武伊勢崎線のこの区間は明治40年に開通していました。当時は田畑ばかりで何もなかった場所に分福球場が作られたのは昭和初期のようです。
館林・分福球場は東武線の線路沿いにありました。茂林寺・分福球場という人がいますが茂林寺とは線路を隔てて反対側になります。茂林寺が球場を所有していたのか私の調査の範囲ではわかっておりません。
1936年にタイガースが明石で地獄のキャンプを張っていた頃、巨人さんは茂林寺に宿泊して分福球場で千本ノックを行っていたようです。このため、茂林寺千本ノックという伝説があります。ところが、お互いの特訓を終えた秋季リーグではタイガースは巨人をはるかにしのぐ勝率を上げているわけで、特訓の成果があったのは明石のタイガースと言う事になるわけです。作られた伝説!今も昔も、話題づくりのうまい新聞社相手では勝てません。
36年に巨人さんが優勝決定戦で勝利したのは、イチにもニにも沢村投手のおかげ。野球は精神特訓ではなく投手力のようです。

タイガースがこの球場で試合を行ったのは1937年の7月のこと。
7月21日に横浜で巨人さん相手にダブルヘッダーを行い、1試合目に沢村を打ち込み、2試合目にはスタルヒンを打ち込んで2連勝したのち、1日置いた7月23日に館林でセネタース対タイガースを行いました。この試合は景浦の豪快な本塁打を含む10得点をあげてセネタースに完封勝利しました。

分福球場の跡地は関東学園に売却され、関東学園分福競技場となっています。当時の建造物は一切残っていないようです。
分福球場は南にホームベース、北に外野となっていました。左の写真はライト外野側から撮影しています。
写真などを照合した結果、北東の角にあるこの木々は分福球場時代から残っているものと判明しています。また、線路側の道路はゆるやかにカーブを描いていますが、このカーブが分福球場の外回りに添った形だとわかりました。

参考文献 : 松木謙治郎 「大阪タイガース球団史」 P191 ベースボールマガジン社

2007年6月制定

げんまつWEBタイガース歴史研究室