川崎スタジアム


1977年4月29日、太洋阪神の3回戦、7対6で阪神が勝っていて9回裏の守りに付いたタイガース。福島の飛球を追いかけた佐野は太陽の光が目に入ったか、打球を見失いヒットにしてしまった。福島の代走に野口。さらに1死1塁から太洋・清水選手の放った打球が佐野選手の頭上を越える大飛球。佐野は打球を追い捕球したものの、フェンスに左前頭部を激突させてその場にばったり倒れた。
レフト線審の田中はアウトをコールしたが、倒れこんでいる間に野口は一塁からタッチアップのスタートをきった。駆け寄った中堅の池辺は佐野の表情を見て打球の処理をする気にはなれなかった。田淵はタイムを要求したが認められず、タッチアップした一塁ランナーはホームインして太洋は同点に追いついた。
池辺は「だって目をむいて両手を痙攣させていたから」と語った。それほどの衝撃だった。
「突発事故だ」34分間の阪神ベンチの抗議だったが責任審判の平光は「事例がない」と却下し認めなかった。
X線検査の結果、頭蓋骨に8cmもの骨折が確認された。

この事件以来、外野フェンスはコンクリート剥き出しからラバーを貼るように変更された。これが川崎球場だった。
1952年、川崎市の富士見公園内に川崎球場が建てられた。飽和状態の後楽園を保管する球場とされ、タイガースが初めて使用したのは1952年9月5日の国鉄戦だった。1955年に松竹との提携を解消した太洋ホエールズはフランチャイズを関西から川崎に移し、川崎球場で常時タイガース戦が開催されるようになりました。
1978年から太洋がフランチャイズを横浜スタジアムに移したため1977年10月13日をもって川崎でタイガースの公式戦は開催されなくなりました。
その後、1991年までロッテがフランチャイズを置いたものの、オープン戦も川崎では行わなかった。
1993年8月6日に15年ぶりに横浜−阪神の公式戦が予定されたが雨天中止。結局、私はこの球場では阪神戦を観戦する事はできなかった。川崎で唯一見たのが、ロッテ−南海戦だった。

先般、川崎球場は解体されたと記述したのだが、「解体されたのみで川崎球場はまだある」との指摘を受けたので、のこのこと川崎球場の現状を見に行くことにした。図書館を曲がると球場のスタンドはない。が、照明塔はあるようだ。
川崎市が行った耐震強度測定で川崎球場は震度5以上の地震に対応できないから撤去するとの話を聞きましたが、やっぱりスタンドはなかった。

あとは、遺跡を探したわけですが、この駐車場の門は、昔の球場の門ですね。
それと川崎の照明塔はライト以外はスタンドの外にあった。そのおかげか照明塔も昔のまま残っています。カバーをかけられてますが。
球場も人工芝やフェンスは残っています。室内練習場も残っています。
ただ、野球場としても使えるようにはなっていますが、フットサル場として活用しているようで、それがなんとなく悲しかった。アメリカンフットボールにも使えるらしい。
簡易的な階段状のスタンドが代りに設置されていました。
やっぱり、野球をやっていた頃の川崎球場のイメージはないですな。悲しい感じ。
球場の裏にやってきました。
ここはライトの裏で、昔は球場のすぐ横まで住宅が迫っている感じでしたが。

スタンドがなくなって歩道が拡張され、広くなってます。
綺麗な歩道で見違えるようですが、やっぱりブルーシートで作成された家があり、中に住んでおられるようでした。
やはり川崎球場でした。

球場がなくなるのはさびしいものです。
でも、スタンドがなくなっても川崎球場はこれからも生き残っていくのでしょう。
野球はやらないですが。

プロ野球ニュースの中では思い出の球場でした。

制定 2006.3.8

げんまつWEBタイガース歴史研究室