思い出の日生球場


森ノ宮の日生球場跡、まだ昔の土手は残っています。ここはレフト外野の裏あたりになります。日生球場といえば、近鉄バファローズのイメージが強いが、タイガースにも縁はあった。
1950年、9月26日の松竹戦を皮切りに大洋戦、国鉄戦と3試合。
1951年は5月29日30日に広島戦と中日戦で3試合、7月に大洋戦、8月は広島戦と松竹戦、10月に大洋戦と国鉄戦で合計8試合。
1952年は8試合。1953年は11試合。1954年は11試合。1955年から試合は行われていない。
タイガースの主催試合のうち、不人気の国鉄、広島、大洋戦を中心にカードを組んだ。いわば準フランチャイズ球場と言ってもいい球場だった事は、あまり知られていない。
1950年に新設された球場で、日本生命の従業員のための厚生施設だったが、大阪市民の要望により一般市民に広く開放され、プロ野球から高校野球まで広く使われるようになった球場だ。
グランドは内野が土、外野は高麗芝。両翼90.4m・中堅116mの今思えば狭い球場だった。現在、スタンドは取り壊されて入るが、グランドのあった部分は平面なので、そのままになっている。フェンスとグランドに面影が残る。ナイターが設置されたのは1958年なのでタイガースが撤退した後だった。
新聞の記録を読めば1955年、阪神タイガースに多数の新人選手を入団させた年だが、選手が多すぎるため新人のキャンプは日生球場で行ったと記載されていた。二軍キャンプ地だった事もあるのだ。
球場正面玄関前の階段はまだそのまま残されていて、上がりきった部分が駐車場となっているので、やけに哀愁を感じる。この球場に何度も脚を運んだだけに、あまり見たい光景ではない。
日生球場が近鉄の試合ばかりするようになっていた1974年、3月24日 日生球場でのオープン戦は藤田平が欠場した。この代役として出場した高卒1年目の掛布雅之は大活躍し、一軍の切符を手に入れたのは有名な話でしょう。タイガース史の中でもいろいろ思い出が深い場所。

近鉄バファローズも姿を消し、日生球場も姿を消した今、タイガースが日生球場を準本拠地のように使用していた事を、ここに記録しておく。

げんまつWEBタイガース歴史研究室