タイガース背番号雑学2

個々の名選手のエピソードなど


タイガースの3人の永久欠番

永久欠番10

藤村富美男氏はイロハ順で10番を与えられた。
何と言おうが藤村選手は背番号10に固執しており、助監督・兼任監督・監督とすべての境目で30番に変更することなく、10番を付け続けた。
(特に46年の監督で30番をつけなかったのは南海と阪神だけだった。もちろん藤村は代理監督ではあったが)
藤村氏の10番をファンも求めていた。球場に入ってまず10番を探すファン達、それを知ってわざと遅れてダグアウトを出る背番号10。
愛された藤村氏の番号はタイガース最初の永久欠番となった。

永久欠番11

59年1月、カイザー田中監督は「戦力が苦しい」の一点張り。
大崎三男が移籍した中、炎のエース村山実氏は高卒ルーキーの森光と共に入団前から「勝つこと」を期待されたルーキーだった。田中監督は「新人に勝星を期待するのは何だが、勝ってもらわねば困る」と語り、そして村山は勝ち続けた。
背番号「11」は村山実氏の引退の72年11月2日に永久欠番となった。
村山氏は監督として復帰した88年に再び永久欠番「11」をつけた。球界の暗黙のルール「永久欠番は二度着けない」を破ったもので、まさに「タイガースの村山」といった行為だった。目立ちたがりの読売軍・長嶋監督も、その後真似をして永久欠番「3」を監督として着けたが、村山氏が先にやっていなければ出来なかった事だったろう。
引退後の村山氏にサインをもらった事がある。「村山実」のサインの横に「11」を書いて欲しいと希望したら、なんと「阪神タイガース 永久欠番11」と書き込んでくれた。
村山氏は永久欠番を与えられた事を心から感謝し、その永久欠番を大切にしまいこむのではなく、常に永久欠番を前面に押し出して生きられたのでした。すばらしい永久欠番。

永久欠番23

吉田義男氏が永久欠番を与えられたのは監督として阪神優勝を決めた後の87年末である。
吉田氏の番号「23」は、着けるにふさわしい選手に与えようと長年あけられていたのだが、投手力が不足して投手中心の補強の中、中村勝・佐野・岡田の3人ぐらいしか大物の内野手が入団しなかった。彼らは他の番号を希望したため、吉田氏の番号は長年後継者が現れなかったのだ。
他の永久欠番の2人はそれ以外の番号を球団生活で着けなかったが、吉田氏は引退後様々な番号を着けた。吉田氏は選手としての自分の終わりを自覚し、23と決別する決心をしたのです。
特に驚いたのは、監督として初めて采配を振るった75年。それまで監督は大きい数字を背負うものという常識を完全に覆し、好きなメジャーリーガーのビリー・マーチンの背番号から「1」をつけた。

選手の背番号エピソード

1番へのあこがれ

1番にあこがれたのは吉田義男監督だ。75年監督としてタイガースに復帰するや「1」を着けた。自身があこがれたメジャーリーガーのビリー・マーチンの背負った背番号だった。大きな番号が当たり前だった監督が「1」を着けた事は驚き。またライバル読売球団の背番号「1」は世界の本塁打王・王貞治。スマートな体型の王に対して、やや太り出した吉田監督が同じ番号を付けた事で「よブタ」と冷やかされ、相撲部屋「阪神」の代名詞となってしまったのだ。
(他にも 田ブタ・遠井関・豊山 など関取は数多くいた)

20年後、1番にあこがれた男がもう一人現れた。背番号「63」を背負った虎のプリンス新庄剛志だ。92年の活躍で重たい背番号「63」から軽い背番号への変更を打診された新庄の希望は「1」番だった。が、当時4番打者のオマリーが着けていたため変更できなかった。バースの「44」など様々な希望を出したが、好守の外野手・北村が着けていた「5」に決定。
しかし新庄はあきらめていなかった。2000年オフのFA宣言を前に再び「1」への憧れを表明。FA残留を希望するタイガースは、その時「1」を着けていた中込を「55」に変更させて背番号「1」を確保した。結局ニューヨーク・メッツに移籍した新庄がその「1」を着ける事はなかったのだが。 中込の優しさもよくわかるのだ。新庄は後に日本ハムで「1」を背負った。

幻の背番号1

阪神が期待を持って獲得した新人選手、慶応大卒の安藤統夫に球団は背番号1を用意したらしい。
キャンプ初日に背番号1のユニフォームを着てジョギングする安藤を見かけた藤本監督は「1は似合わない」と急遽9のユニフォームに交換させられたと言う。
背番号発表の会見もない時代のこと。球界に記録は残っていない。
ユニフォームに個人名が刺繍されていなかった時代だったから出来た話。

6へのこだわり

6といえば、球界では遊撃手の番号だが、タイガースでは名ショート藤田平の番号だった。
85年入団の和田豊はドラフト3位入団ながら名遊撃手藤田平から背番号「6」を引き継いだ。入団会見では「6番にはこだわりがない」と言っていたが、17年間この背番号を着け続ける間に6へのこだわりは深くなった。
01年秋、現役引退しコーチとなった和田に与えられた背番号は「81」。秋季練習の間、和田は「81」をつけてグランドに出た。しかし現役の頃の背番号「6」にこだわり、「86」の吉田康夫コーチに背番号の交換を依頼したそうだ。
02年春季キャンプからは背番号「86」が和田コーチの番号となった。
和田の背番号「81」は秋季キャンプ限定のため色々な選手名鑑でも見る事ができない。

16番に対する思い

玉造のプリンス、ドラフト1位入団の岡田彰布は入団時に4種類の背番号を提示され、その中から「16」を選んだ。
大の阪神ファンの父親を持つ岡田は子供の頃からタイガース選手と触れ合う機会が多かった。何しろ岡田は幼少期にタイガース優勝パレードの1号車に同乗している程なのだ。その中で触れ合ったタイガース選手の一人が名三塁手の三宅秀史・背番号「16」だった。岡田は幼少時にキャッチボールをしてもらった名三塁手・三宅の番号「16」を入団時に選んだのでした。

22をつけた理由

4番を打った田宮がつけた22番、法政大学の先輩室山もつけていた22番だが、田淵がつけた事には関係ない。
天性のスラッガー田淵幸一の六大学通算本塁打数は22本、だから一桁の背番号に空きがあっても背番号22を選んだ。田淵の入団1年目の本塁打も何故か22本。
数年後に田淵はレコードを出した。タイトルは「やったぜホームラン王 スーパースター22番」、田淵も歌っている「輝け!!猛虎22番!」という曲は、おそらくタイガース選手自身が歌った最初の録音ではなかっただろうか。

長年にわたりタイガースでは22を捕手の番号にする傾向があったが、藤川球児は横浜・佐々木のクローザーのイメージで22を選んだ。ひとつの時代が終わった。

江夏豊の背番号

江夏と言えば背番号「28」
これは有名だが、江夏豊が71番を着けていたのをご存知だろうか?
高卒ルーキーの江夏達は、入団後のキャンプに参加するにあたり仮の背番号をつけた。1位の江夏が71番、以下誰が何番か細かい資料がないのだが、その年に入団した高卒ルーキーはキャンプで70番代の背番号をつけた。ドラフトが1次2次と別れた影響であろうか。
この貴重な71番の写真は「阪神タイガース 昭和のあゆみ」の中で見る事ができます。

背番号31

誰がなんと言おうと「31」は掛布雅之の番号だ。
掛布の父親は「超」が着くほどの野球好き、息子を野球選手にするべく元タイガーストレーニングコーチの篠田仁氏に頼み込んだ程の人。もちろん掛布は父に従って子供の頃から野球の虫だった。
テスト入団の掛布が一流となったのは、子供の頃からの厳しい練習の成果。背番号「31」には「人の三倍練習して一流になれ」との願いが込められていた。
掛布の後を継いだのが萩原誠であった。「31」を着けるにあたり色々なプレッシャーがあったとも言うのだが、萩原の場合は掛布の背番号の裏にある「人の三倍練習して一流になれ」の精神を理解していたとは思えないのだ。

掛布は背番号「9」のユニフォームを着た事がある。テスト生となった時に予備のユニフォームがなかったので、その年現役引退した安藤監督のユニフォームを裏返しにして着たわけです。表からは見えませんが、いちよう背番号「9」のユニフォームを着たという事です。

47番の大エース

前述したが、そもそも30番以降は2軍選手の番号だった。
テスト入団の小山正明投手は入団時にまったく期待されていなかったので背番号は「49番」。しかし、1年目から活躍し一桁の「6番」に昇進となった。しかし56年に故障して背番号を「14番」に変更した。
「14番」をつけた57年は15勝17敗と決して悪い成績ではなかったかもしれないが、小山にとって満足がいく成績ではなかった。初心に戻っての40番台の背番号を希望し、空き番の中から好きな「47番」を選んだ。 
小山の背番号変更は大きな背番号の先駆けであったが、当時は極めて異例の事であった。その後、不動の中心選手が30番以上の背番号を長年つけ続けるのは、同じテスト入団の掛布雅之までない。

背番号99

日本球界では近鉄の鳥坂九十九選手が名前にちなんで始めて着けた「99」、阪神で初めて着けたのは80年代のテスト生が最初だ。テスト生の場合は記録に残らないため、記録上は山崎剛打撃投手が始めてとなる。
そのようなテスト生や裏方の番号だった「99」を、ドラフト1位の中込伸が着けたのには理由がある。
甲府工業で甲子園に出場した中込は定時制の生徒だったため高校卒業まであと1年必要だった。そこで阪神球団は有望選手の中込をテスト生のような形(球団職員、二軍用具担当補佐)として翌年のドラフトまでかくまう事とした。JR尼崎駅の傍にある神崎工業高校の定時制4年生に編入学させ、昼間は球団職員扱いで練習に参加、夜は学校に通わせた。練習生時代に与えられた背番号が「99」だった。
ドラフト1位での入団後、村山監督は真鍋が着けていた「20」を剥奪して中込に用意した。しかし、人に優しい中込は1年間の寮生活で親しくなった先輩の番号を奪うのが嫌だった。新しい背番号を拒否して、秋の正式入団の際に「99」番のドラフト1位選手となったのだ。中込以降、「99」は選手の番号として定着している。

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改訂 : 2009.3.1

げんまつWEBタイガース歴史研究室