タイガース春季キャンプ史

タイガース春季キャンプの歴史をつづる


春のキャンプの歴史

36年 初のキャンプは兵庫県加古川市・浜の宮海浜
37年〜52年 甲子園球場 (ただし45、46年はキャンプなし)
53年 鹿児島・鴨池球場、甲子園球場(二軍)
54年 甲子園球場
55年 甲子園球場、日生球場(二軍)
56年 甲子園球場・奈良球場
57年 甲子園球場、蔵本公園球場
58年〜60年 甲子園球場
61年〜62年 高知球場、甲子園球場(二軍)
63年 高知球場、フロリダ・レークランドのタイガータウン、甲子園球場(二軍)
64年 高知球場、甲子園球場(二軍)
65年〜79年 安芸市営球場、甲子園球場
80年〜81年 米アリゾナ州テンピと安芸市営球場、甲子園球場
82年 安芸市営球場、甲子園球場
83年〜84年 米ハワイ州マウイ島と安芸市営球場、甲子園球場
85年〜00年 安芸市営球場
01年 沖縄・宮古島、安芸市営球場、室戸球場(二軍)
02年 安芸市営球場、室戸球場(二軍)
03年 宜野座村、安芸市営球場、室戸マリン球場(二軍)
04年 宜野座村、安芸市営球場、高知球場(二軍)
05年〜11年 宜野座村、安芸市営球場(前半二軍・後半合同)
12年〜 宜野座村(一軍)、金武(一軍予備)、安芸市営球場(二軍)

*故障者の3軍キャンプ(甲子園・鳴尾浜 居残り・強制送還)は含まず

第一期 36年から60年まで 甲子園練習

初めてのキャンプは36年2月に浜の宮で行った合宿練習だった[1]。
松林と海岸の側に公園のようなグランドがあり、女性の観客も来ていたとか。この合宿ではチームとしての結束力を高める事が第一の目的で、技術的な強化練習は帰阪後に甲子園球場で行ったようだ。

60年までは技術的な合宿練習はすべて甲子園球場で行っていました。
戦前は石本監督就任直後に明石球場でキャンプが行われたり、戦時中に奈良でキャンプを行ったとの記録がある。
戦後は53年鴨池、56年奈良鴻ノ池、57年徳島蔵本の例があるが、いずれにせよ甲子園での練習が中心でした。
この頃の考え方は、実際にプレーする甲子園で練習を行う事が最適で、キャンプは団結力を深める為の精神的な意味合いが大きかった。

第二期 61年から64年 高知時代

60年に巨人出身の藤本コーチが就任した。甲子園球場を所有する阪神とは異なり、巨人には専用の球場がない為に早くから宮崎で春季キャンプを行っていた。甲子園があったために阪神は温かい土地でキャンプを行う事に取り組むのが遅れた。
表1によると59年のタイガースは甲子園での合宿練習だが、巨人は宮崎・阪急は高知など温暖地にて練習を行っていた。

 表1.1959年 球界キャンプ地一覧 [2]

パリーグ 西鉄 2/1〜2/9香椎(若手・バッテリー)  2/11〜2/28島原
南海 1/26〜1/30中モズ(バッテリー)  1/31住吉神社参拝  2/1〜2/28中モズ
阪急 例年通り西宮球場  2/7〜3月高知
大毎 1/25〜2/1神田YMCA  2/6〜大分球場・別府球場
東映 1/20〜1/29武蔵工大講堂  2/1〜2/20伊東  2/23〜2/28岡山
近鉄 1/20〜1/30花園ラグビー場  1/31〜2/3藤井寺  2/6〜下旬・今治市営球場
セリーグ 読売 1/20〜29多摩川(若手)  2/1〜末・宮崎県営球場  3月初旬・明石
阪神 1/15〜1/末・甲子園(若手) 2/1〜3/20甲子園
中日 2/1〜2/28湯之元
国鉄 1/21〜31杉野短大体育館  2/1〜2/28指宿市営球場
広島 1/8〜2/4広島市民(自由参加)  2/5〜2/23呉二河球場
大洋 1/25〜2/4三保(バッテリー) 2/5〜2/23松山  2/25〜鹿児島鴨池

藤本コーチは投手出身だから暖かい場所でトレーニングを行う効果をよく知っていた。61年、藤本の要望で高知キャンプの開催にこじつけた。偶然、前年まで阪急が使用していた高知球場が空いたからだ。

63年は優勝旅行を兼ねてデトロイトタイガースのキャンプ地、フロリダの「タイガータウン」へ向かった。2月9日に日本を発ち、ホノルル経由でフロリダ入り。3月1日に帰国という日程だった。だが、アメリカ式の練習が合わず、この年のペナントを落す原因となった。しかし、この時に戸沢社長の目に映った「タイガータウン」の充実した施設が、牛窓へのキャンプ地構想 そして安芸のタイガータウン建設へのバックグラウンドになった。

第三期 65年から00年 安芸市営球場時代

タイガース名物の安芸キャンプは65年春から始まった。(安芸キャンプのはじまり
平成時代になって充実した設備を誇っている安芸市営球場だが、キャンプ開始当初は施設の拡充もなかなか捗らず、関係者は苦労を重ねた。

安芸時代のなかで80年代の海外キャンプは「海外ブームだった事」「ブレイザー監督の存在」「豪腕小津社長」の3つの要素が集まった事による。海外キャンプはあくまでも体作りが主眼で、メインの練習は帰国後の安芸で行った。
85年はマウイキャンプを予定していたが、吉田監督就任後に急遽変更された。キャンプの安芸一本化は吉田監督の意向によるもの。土台作りとチーム一丸を強調するために1・2軍全体でキャンプを行う事にした。85年は吉田監督のキャンプが成功して優勝した。

「タイガースキャンプは安芸」という時代だった。90年代後半からはスカイAによるキャンプ中継が始まった。

  第三期−2 01年〜02年 安芸分散キャンプ時代

タイガースでは毎年キャンプ中の故障が絶えなかった。
2月初頭の安芸は気温も低く、小雪が舞う事もあった。より温暖な場所でのキャンプを選手会が要求した。

01年は試行錯誤の年だった。ベテラン投手陣の宮古キャンプは御子柴コーチ以下で実施されたが、参加した投手陣が軒並み不調となったため1年で廃止された。これは沖縄キャンプでの調整のノウハウが確立できていなった為だ。
また同じく01年は2軍選手を室戸に分離する事で差別化をはかり、ハングリーさを求めるようになった。

02年春は宮古を廃止して安芸と室戸に集約したが、その影で沖縄キャンプの検討が進められ宜野座・赤間など候補地の選定が進められた。秋季キャンプは安芸市営球場から星野監督の地元・倉敷マスカット球場に変更したが、これが安芸からの一部撤退を表明する象徴となった。もはや安芸からの一部撤退は逃れられない流れとなった。

第四期 03年〜 宜野座・安芸キャンプ時代

03年からは沖縄・宜野座村でキャンプ前半部を行うようになった。宜野座でのキャンプは温暖な中での体作り中心のメニューだったが、故障者も減り(1年目は暖かいために飛ばしすぎた故障者はいた)ハイペースな調整が実施でき、キャンプ新時代の到来を予感させた。沖縄キャンプが始まってからは2月中旬に他球団と練習試合が組まれるようになった。
04年までは宜野座の期間が2週間と短かったため一軍が安芸に移動した後は二軍キャンプが移動していたが、05年以降は宜野座キャンプが約20日に延びたため、一軍合同が終わった後の二軍はそのまま鳴尾浜練習にもどる事となった。


参考文献
[1] 松木謙治郎著「タイガースのおいたち」
[2] ベースボールマガジン 1959年2月号 P70

制定 2002年
改訂1 2003年2月
改訂2 2004年2月
改訂3 2005年2月28日
改訂4 2009年3月1日
改訂5 2010年2月28日
改訂6 2011年10月28日
改訂7 2012年2月19日

げんまつWEBタイガース歴史研究室