タイガース背番号雑学1

よく球界では投手は何番、捕手は何番という暗黙のルールがある。
しかしタイガースは違う。「人と違う事をするのがかっこいい」というタイガースらしい背番号事情。


イの1番

1936年、発足当時の大阪タイガースはイロハ順で背番号をつけた。この時、背番号1となったのは「イ」の伊賀上良平内野手だった。
この時、ルールに従っていない選手が2人、若林・佐藤はイロハ順ではない番号に付け替えています。このあたりの詳しい資料は見当たらないのですが、背景はこのように予想していますのでリンクを参照下さい。そういうのもタイガースらしくて好きです。

エースは18番? そんな事はないのがタイガース

最初はイロハ順につけた背番号、「わた」の渡辺一夫が5番であるにもかかわらず、「わか」の若林忠志は4番ではなく18番をつけた。私は4番という数字を嫌がって偶然あいていた18番にしたと考えています。通説はエースが18だから18番をつけたと言われていますが、まったく証拠がありません。
とはいえ、タイガースの初代エースは「18番」だったわけです。

1947年、若林が新入団の梶岡に自分の番号「18番」を渡してエースの座を託した。若林は監督の番号である「30番」をつけたため、空いた自分の番号を速球投手の新人・梶岡に渡した。これが日本球界ではじめて18番を主戦投手が引き継いだ例である。

ところが、梶岡は後に「1番」に背番号を変更した。タイガースでは18番はその程度の番号のようです。
なにしろ、タイガースでは歴史的に「よい投手は一桁」という考え方がある。
18だった薮も「4番」に変更したように、18=エースという伝統はタイガースにはまったくもって存在しない。

読売が「藤田−堀内−桑田」と引き継いだような「18はエース」というこだわりは、タイガースにはない。
ドラフト制度導入以降、いちよう1位格の石床−谷村−大町−池田−薮−杉山−二神と「18番」を与えている。
ドラフト1位はそうだろうが、タイガースでは投手は好きな番号をつけて、それをエースの番号にする。これこそがタイガースの伝統。

18番の主戦級投手
若林忠志梶岡忠義・谷村智博・安仁屋宗八・池田親興・野田浩司・藪恵壹

18番以外の主な主戦級投手(表)

1番 梶岡忠義・野田浩司・中込伸
2番 藤村隆男
3番 梶岡忠義
4番 バッキーキーオ薮恵壹・ボーグルソン
8番 大崎三男
11番 村山実
14番 能見篤史
15番 御園生崇男・谷村智啓・湯舟敏郎
16番 安藤優也
17番 ムーア
19番 西村幸生小林繁・中西清起・川尻哲郎
20番 西村一孔・伊藤宏光
21番 岩田稔
22番 藤川球児
25番 山本和行
26番 工藤一彦
28番 江夏豊・福原忍
29番 江本孟紀井川慶
30番 久保田智之
34番 仲田幸司
41番 伊良部秀樹
42番 下柳剛
45番 ゲイル
47番 小山正明
99番 中込伸

監督といえば30番

阪神では2代目石本監督(就任時は無番号だったとも言われるが)から61年の金田監督まで、兼任監督だった藤村監督を除き監督の背番号は30番。
職業野球創成期、監督は天上の存在。チームの一番上に君臨する為に最も大きい番号をつけるという意味で、30番が球界全体で主流となったようだ。

30番すなわち監督なり

  参考文献 竹中半平 「背番号への愛着」

* 37年には2人の選手が30番台の背番号をつけている。しかし1938年に「背番号ハ30以内ニ整理スベシ」という連盟からの通達があったようだ。
* 石本監督は本HPでは最初から30番をつけているのだが、最初は背番号がなかったとも言われている。いつから背番号をつけたのか定かではない。この頃の背番号は背中についていて、後ろから写した写真がないために解からないのだ。

30番の監督:石本・松木・若林・田中・金田

応召し戦場に向かった選手

軍隊に入営した選手が除隊復帰の際に再び同じ背番号でプレーできるように、入営選手の背番号は欠番扱いとなった。
戦後に復帰した場合を除き、すべて元の背番号で復帰し、戦死したケースでも本当に背番号が不足する1940年頃まではその番号は欠番となった。

守備位置別背番号制度

1950年、2リーグ分裂後のタイガースは新しく生まれ変わるという意味で守備位置順に背番号をつけ直した。
投手は1〜8 松木監督が9 藤村助監督が10 御園生主将が11 捕手が12〜14 内野手が15〜20 外野手が21以降となった。
ただし、河文雄投手はシーズン終盤の入団だったため、外野手の後の背番号となった。
翌年には金田外野手、御園生主将が49年までの元の番号に戻すなどしている。と言うことは評判よくなかったのだろう。だが、55年頃までは慣習として投手は一桁と言う形が残った。

二軍選手の番号

1950年 二軍が発足したときは、テスト入団の二軍選手は一部の有望選手を除き背番号は30番台の別の番号が用意された。
森田ニ軍監督が31番で32番以降に選手が並んだ。坂田内野手や丸岡投手らのように1軍で活躍できれば、翌年は30番未満の若い番号に変更された。
1958年にエースの小山投手が47番をつけて大活躍するまでは、大きい番号は2軍という流れが続いた。

着けるのも嫌な番号

球団創設時、日本人が嫌がる「4」と、アメリカ野球界で敬遠されていた「13」が欠番となった。
長年「4」を敬遠したのは阪神ぐらいだったが、「13」は巨人以外のすべてのチームが欠番としていた。
「4」より「13」の方がより嫌われるのは、野球ではアメリカの影響が強かったと言うことだろうか。

タイガースで「4」と「13」が1年を通じて着けられるようになったのは1950年である。この時の「4」は50年以降急成長した駒田投手、「13」は徳網捕手だった。タイガースの13番は50年以降、主に捕手の番号としてつけられるようになったが、一方の4番は相変わらずタイガースでは不人気だったようで外国人のバッキーがつけた。4番を日本人に定着させたのは川藤幸三氏。

選手が増えた1958年頃からは 42「死に」44「死死」49「死苦」なども敬遠される番号となった。
大きな番号は二軍選手の番号で仕方なく(?)着けられていたようだが、二軍が軌道に乗り始めた58年以降で数えてみても
42番 27回 58〜65年、71〜79年、81〜87年、89年、91年、95年が欠番
44番 4回  59年、60年、62年、74年が欠番 → 徐々に外国人の背番号へ変化して行きランディ・バースの番号に
49番 7回  58年、60年〜62年、65年、84年、85年が欠番

特に不人気な「42番」だった。
しかし、メジャーでは黒人初のメジャーリーガーであるJ・ロビンソンのデビュー50周年を記念し、97年に42番を米球界全体の欠番とした。
昨今では外国人選手が好んで42番を着けている。

たった一人しかつけていない番号

2010年時点で
10番 藤村富美男内野手 36年〜58年 永久欠番
100番 高井一外野手   94年限り
111番 本田明宏捕手(ブルペン捕手)
112番 片山大樹捕手(ブルペン捕手)
113番 鈴衛佑規捕手(ブルペン捕手)
114番 横川雄介捕手(ブルペン捕手)
120番 田中慎太郎(育成選手)
124番 吉岡興志(育成選手)
125番 藤井宏政(育成選手)
151番 奥村幸治打撃投手  94年限り
(番外)
02番 松永浩美内野手 93年シーズン途中からシーズン終了まで

藤村富美男さんの10番は偉大である。

同じ番号を着け続ける

2010年3月現在
 27年 93番 西口裕治
 23年 10番 藤村冨美男 (ただし応召と44年45年で6年欠落しているので実シーズンでは17年となる)
 19年 6番 藤田平    24番 桧山進次郎(19年目 現役)
 17年 4番 川藤幸三   6番 和田豊   23番 吉田義男   25番 山本和行   3番 八木浩  
 16年 7番 真弓明信   9番 佐野仙好   24番 遠井吾郎   105番 川原新治
 15年 56番 御子柴進   79番 続木敏之  108番 中井伸之(15年目 継続)

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改訂 2008.5.1
改訂 2009.3
改訂 2010.3 二神18番追加  中井打撃投手15年間でランクイン

げんまつWEBタイガース歴史研究室