タイガースは6月に入って1週間の練習のあと、九州・朝鮮遠征に出発した。
朝鮮新聞社の招聘で、セネタースと共に朝鮮へ遠征する事となった。
出発前日に松方会長主催で甲子園ホテルにて壮行会が行われ、6月11日午前8時発の汽車で中川マネージャー率いる総勢20人は大阪駅を出発し、九州へと向かった。
6月13日(熊本・水前寺)
タ軍 10−2 熊本鉄道局 藤村○ 若林 本塁打 景浦
1928年に完成した熊本市営水前寺野球場、相手は前年巨人に勝った九州の強豪チーム熊本鉄道局だったので、本気で叩きに行った。藤村−若林の万全のリレーで快勝。打っては熊鉄・末次投手に11安打の猛攻だった。景浦の左中間への本塁打は特大の場外弾で見る者を達を唖然とさせたという。
6月14日(小倉・到津)
タ軍 6−4 セ軍 若林○
1934年、日米野球15戦でベーブルースが本塁打を放った小倉・到津球場。左翼85m、右翼125mと言う歪な形状の球場で、おそらくは野球場というよりも多目的なグランド。現存しないながら球場のあった場所にはモニュメントが設置されている。
このタイガースとセネタースの対戦が、オープン戦ながら九州で初めての職業野球の対戦試合となった。
6月16日(福岡・春日原)
タ軍 9−1 福岡倶楽部 御園生○
九鉄電車沿線の春日原球場は1924年に完成した。周辺には陸上トラックなどもあり、運動公園と言う雰囲気の中に作られた観客席5000人程度の球場だ。相手はアマチュアの福岡倶楽部だった。
入場料は50銭(前売り45銭)だったという。
6月17日、船で下関から釜山へ渡り、18日に京城・南大門通りの大塚旅館に到着した。20日から試合の予定だったが、初日は雨で順延となった。
6月21日(京城)
タ軍 3−4 セ軍 本塁打 景浦
6月22日(京城)
タ軍 4−5× セ軍
6月23日(京城)
タ軍 12−3 全京城 本塁打 藤村(満塁)
全京城戦では6回まで1対1の投手戦だった。6回裏に岡田の代打で登場した藤村富美男が左翼席に満塁本塁打を放ったが、タイガースの代打本塁打と満塁本塁打の第1号はこの藤村の本塁打だったという。
京城での戦績はセネタースに二連敗だったが、セネタースが5−8で敗戦した全京城に快勝して面目を保った。
6月25日付けの朝鮮新聞には「両チームが職業野球チームでありながら、何等職業色の臭味を見出すことができぬほど明朗なチームであり、真面目なチームであった事を先ず第一に特記しておかねばならぬ」
この記事を読み、職業野球というものをいかに冷たい目で見られていたか、そしてそれを真剣なプレーでもって払拭したかを実感する。
松木謙治郎氏は「たしかに創立時だけに真剣なプレーをしたのである。スピードと真剣、これをモットーに一般社会から冷たい目で見られながらも、いばらの道を切り開くのに努力していた。」と語る。プロ野球の先人達にただただ敬意を持つのみだ。
これらの遠征試合は甲子園球場の外野スタンド設置工事のために球場が使えなかった事から行われた。
帰国したタイガースは6月27日に米国から帰国した東京巨人と対戦し、職業野球リーグ戦へと進んでいくのでした。
参考文献
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史 (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
朝日新聞 縮刷版 (1936年)
大阪朝日新聞 (1936年)