3.ライバル阪急と中学野球


小林一三と豊中球場

阪急の創立者、小林一三は1907年に箕面有馬電軌(通称箕電:現在の阪急宝塚線)を設立しました。
小林一三は後に阪急・東宝グループを設立し宝塚歌劇団を生んだ経営の天才として知られていますが、高校野球大会の生みの親でもありました。

慶応大在学時に野球に目覚めた小林の野球熱は相当な物だったそうだ。
1915年5月1日、弱小企業・箕電の経営に携わりながら少ない資金をやりくりし、沿線の綿畑だった140m四方の土地に広さ約2万uの豊中球場を設立した。設備的に日本一の野球グラウンドだった。高さ1m余の赤レンガ塀で囲まれ、木製の葦簾張りの観覧席と応援団席もあった。そして野球振興のため、グランドを活用した。
8月、小林は社員の吉岡重三郎(後の東宝社長)の発案から、大阪朝日新聞社に共催を持ち掛けて第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を開催した。

写真のメモリアルパークは83年、豊中球場の正門があった場所の近くに設置されています。豊中球場は写真を撮影するために立っている側にあり、住宅地の中にはいると民家の外壁として当時のレンガ壁が一部残っています。

  豊中駅北東にあるメモリアルパーク

阪急がライバル

岩下清周は小林一三の後ろ盾となっていた人物。北浜銀行の頭取だったが、同時に箕面電軌の総帥であり、大阪電軌(近鉄)の社長であり、阪~電鉄の大株主でもあった。すなわち関西私鉄界に幅をきかせる人物でした。
ところが、実力者であったが為に敵も多かった。中等学校野球開催の2ケ月前、岩下が失脚する事件(北浜事件)が起きた。北浜銀行は「反岩下派」の新経営陣の手に渡り、岩下傘下の箕面電軌は資金難に陥った。 経営の天才であった小林一三はその難を見事に乗り切ったのだが、続いて阪急が大きく飛躍する原因となる事件が起きた。
岩下が所有していた灘循環鉄道の株が動いた。この鉄道は未着工だったが、権利を購入すれば阪急は大阪−神戸間に鉄道を引く事が出来た。
平行する路線が他社の手に渡る事は阪~にとって大問題だったが、購入に意欲を見せていた箕面電軌が北浜事件により資金的に追い詰められている事は周知の事実であり、「待てば値が下がる」と考えて購入の意思がない事を公表した。小林は1916年4月の株主総会で灘循環鉄道の株を購入する事を決定し、阪急神戸線の着工に手をつけた。阪急の計画は可能な限り真っ直ぐな路線を引き、駅数を少なくして、阪~が1時間かかっていた阪神間をわずか40分で運行させようという「阪神急行電鉄計画」だった。
驚いた阪神電鉄は箕面電軌に対して、訴訟や土地の買収防止など数々のいやがらせを試みた。

鳴尾球場

中学野球の阪神沿線への誘致も阪急への攻めの一つだった。 野球好きの小林にとってはこれ以上の嫌がらせはない。また、野球により沿線に人を呼べば運賃収入を得る事も出来る。
豊中球場で行われていた中学野球は大盛況だった反面、問題もあった。弱小な箕面電軌の輸送力の低さと、スタンドの定員が100人という豊中球場の狭さだった。第一回大会の観客は予想に反して盛況で6日間で延べ1万人だった。ここに目をつけて阪神は1916年 鳴尾競馬場内にグランドを建設し、大阪朝日新聞に誘致を行った。
第2回大会は結局豊中球場で開催されたものの参加校が12地区に増え、狭い豊中球場はさらに混乱を増していた。

関西(鳴尾)競馬場は現在仁川にある阪神競馬場の前身です。
1907年に阪~競馬倶楽部がオープンさせた1周1845mの広大な競馬場だった。
しかし、馬券売買の禁止と違法行為の取り締まりによって競馬場の経営は非常に苦しくなっていた。そのような背景から副業として競馬場内の土地の貸し出しを模索していた。
1913年、阪~電鉄が年間800円、使用時毎に1日20円の条件で走路内の土地約16万5千平米の借用を契約し、ここに一周800mの広大な陸上競技場を設置した。さらにテニスコートと、堀を改造したプールも作った。
丁度、その頃に第一回の中学野球大会が開催されていた。陸上競技場では1916年の東西対抗陸上競技会を開催している。

陸上競技場の中の土地が余っていたので、2面の野球グランドを設置し、中学野球の開催を誘致した。競馬場開催の際には撤去しなければならないので固定のスタンドは設置できなかったが、仮設の木造スタンドで5〜6千人収容できた。競馬場の観客を裁ききっていた阪~電鉄の輸送力は実証済みで問題はなかった。2面のグランドで敗者復活戦を行えるなど大会を効率的に運営する利点も大きかった。さらに、将来は新球場を設立するとの口約束も交わされていた。中学野球の発案者でありながら資金難の箕面電軌は対抗策を打てなかったので、大阪朝日新聞は1917年の第3回大会から、鳴尾球場への移転を承知した。

野球場が完成した1916年は、阪神電鉄のノンプロ球団が大阪実業野球大会に始めて出場した年でもあった。この実業団チームはタイガースが生まれた1936年頃に消えていく。実業団チームはタイガースと直接は関係ないがOB達(例えば小津球団社長)は阪神電鉄の中でも野球通として、後のタイガースを支援する柱となった。

鳴尾浜球場の位置を示す記念碑(鳴尾浜球場跡)

阪急の持っているものを奪ったという事はさみしい事実であるが、決定した限り阪神はベストを尽くした。阪神が加わらなければ高校野球は成長しなかった。高校野球を育てたのは阪神電鉄の力だった。タイガースが生まれる20年前の事だった。

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参考文献
輸送奉仕の50年 (阪神電鉄 1955年)
阪神タイガース昭和のあゆみ プロ野球前史 (阪神タイガース 1991年)
阪神急行電鉄二十五年史 (1932年)
京阪神急行電鉄五十年史 (1959年)
75年のあゆみ 記述編・写真編 (阪急電鉄 1972年)
小林一三 逸翁自叙伝  (小林一三 日本図書センター 2000年)
宝塚戦略 小林一三の生活文化論 (津金澤聰廣 講談社現代新書 1991年)
阪神競馬場のあゆみ (阪神競馬場の歩み編集委員会 日本中央競馬会阪神競馬場 1991年)

写真撮影:げんまつWEB

げんまつWEBタイガース歴史研究室