7.大阪タイガースの始まり


大阪タイガースと名乗る

球団名 大阪タイガースは1月10日に発表された。

阪神電車の傍系会社として結成された大阪野球倶楽部では、その陣容の整備を急いでいるが 今般同チーム名を「大阪タイガース」と呼ぶこととなった
朝日新聞(東京) 1936年1月11日 記事より

球団名は阪神電鉄社員の公募で決定したと資料に記されています。当選したのは阪神電鉄事業部の松原三郎氏が選んだ「タイガース」でした。大阪と同じような工業都市のデトロイトタイガースから取ったと資料には書かれている。
だが、デトロイトという街が当時それほど大阪に知れ渡っていたのだろうか?

右に掲載したのは大阪朝日新聞の1935年冬の記事だ。
この年のワールドシリーズを制したのはデトロイトタイガース、この冬の大阪朝日のスポーツ面にはデトロイトタイガースの名前が数回取り上げられていました。
大阪の新聞紙面でも広く報道されていたのでこの時期に「タイガース」と言う名前が浸透していたという事でしょう。

偶然にしろデトロイトが1935年のワールドシリーズを制した。これがタイガースの名前の由来なのでしょう。
もしもカップスが優勝していたら大阪カップスになっていたのでしょうか? あまり格好よくない感じがします。

大阪タイガース 格好いい名前ですね。

廣田神社と浜の宮

タイガースはキャンプ出発前の1月下旬に西宮市の廣田神社に全員で参拝する。この習慣は球団結成の1936年からずっと続いている。
朝日新聞(東京)によると、「2月11日 大阪タイガース廣田神社参拝」とある。チーム結成式で球団に集合した幹部以下一同25名は、その脚で連なって廣田神社へ参拝に向かったようだ。当時は西宮東口駅から廣田神社にバスが出ていたようなので、このバスに乗ったのでしょう。(余談だが1955年にタイガースナインが貸し切りの阪神バス2台に分乗して廣田神社に向かうニュース映像を見た事がある、映像としては55年が一番古いように思う。)
今では宅地開発が進み、国道171号線を北に入った廣田神社の周辺も住宅が並んでいるが、当時の廣田神社周辺は野山だった。

球団行事の中では最も歴史が古い伝統の参拝行事だ。長い間、毎年拝みつづけているのであるから、もう少し御利益があってもよいとは思う。神様の効力では優勝まではできないのかもしれないが。

ナインらはその脚で山陽電車の浜の宮(加古川市。現在の浜の宮公園近辺)に移動し、初めての合宿を行った。甲子園球場は積雪で使えなかったのだ。今、浜の宮周辺は菅原道真を祭る浜宮天神社から南に広大な松林が広がっている。松木謙次郎氏の著書によると「浜の宮球場は公園の一部でとても球場と言える物ではなかった」そうだ。選手らは公園の松林で鍛錬したのであろうか。宿泊は公園の中の旅館だったようだが、茶店の大きい程度のものだったそうだ。部屋は 松木と伊賀上、小川と佐藤 というように、大卒者と中卒者の組み合わせだったそうだ。

六甲颪に颯爽と

3月中旬、中学の選抜大会が始まる直前の甲子園球場に集合したナインは甲子園練習を行った。
選手が17人しかおらず試合形式の練習が出来ないため、阪神電鉄に当時あった実業団野球チームから新入社員の4人の選手が応援に駆けつけた。この4人の中には後に阪神電鉄専務に昇進してタイガース社長となった小津正次郎氏がいた。小津氏が歴代社長の中でもタイガースへの愛着が強かったのは、タイガースと共に育った意識があったからだ。

3月25日甲子園ホテル(写真)にて激励会が催され、その場で球団歌「大阪タイガースの歌」が披露された。作詞は佐藤惣之助、作曲は古関裕而、歌はコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズのリーダーの中野忠晴だった。

この年の選抜甲子園は3月28日〜8日間だった。
この間にセネタースや阪急軍、大東京軍などは早々と球団結成試合を行っているのだが、大阪タイガースは4月まで一切試合を行っていない。
中学卒の選手達が学校を卒業するまでは試合をやらない という阪神電鉄らしいまじめ(おかたい)な方針によるものだ。
そして4月19日、満を持して甲子園球場にて結成記念試合を行う事になった。
右は大阪朝日新聞に掲載された案内広告。右にはレスリングの広告、左には武庫川遊園の広告という阪神グループ事業部のだきあわせの掲載だった。
しかし当時としては珍しい選手写真入り、これまでも甲子園球場で試合を行う際は広告を紙面に掲載してきたが、明らかに違う気合の入った広告だ。

選手達は職業野球開催に向けて盛り上がっていたようだが、離脱する選手も現れた。享栄商業から入団した滝野通則内野手と伊藤茂外野手の二人は中学野球で活躍した事でタイガースに勧誘され契約した。だが、契約が済んでいるのに勝手に法政大学へと進学してしまう。一方的に契約を破棄したのだから職業野球連盟は彼らを永久追放処分に処す。
現在ではこのような事件は考えられないが、当時の朝日新聞・毎日新聞を読んでも中学野球と六大学の方が職業野球より記事がはるかに大きい。まだ海のものとも山のものともわからないような職業野球より、安定な六大学野球へと二人が考えた事はおかしい事ではない。親権者が違約金を払ってこの問題は解決した。
卒業後も滝野・伊藤両氏は野球を続けている。滝野は後に審判になった、野球が好きだった事はまちがいない。

この広告では外野手の所に伊藤とあるが、伊藤茂選手の事だと思われる。滝野選手は載っていない。

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参考文献
輸送奉仕の50年          (阪神電鉄 1955年)
阪神タイガース昭和のあゆみ   (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史       (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
真虎伝 藤村富美男       (南万満 新評論  1996年)
朝日新聞 縮刷版  (1936年)
大阪朝日新聞    (1935年、1936年)

写真撮影:げんまつWEB

げんまつWEBタイガース歴史研究室