1945年正月大会

1944年、秋に職業野球は中断となったとされている。
それは職業野球連盟と東京巨人軍の動きが中断されただけであって、我がタイガースは1945年の正月になっても活動していた。


ライター 鈴木明 と 医師 伊藤利清

関西チームは職業野球が中断された後も試合を続けていた。この正月大会は若林忠志の人生を追いかけたライター・鈴木明氏の調査によって初めて明らかになった話だ。
戦時中、職業野球は新聞・ラジオなどのメディアでもほとんど取り上げられていなかったので、近隣のごくわずかな人しか正月野球があった事を知らなかった。鈴木明は若林忠志の足跡を辿る中で伊藤利清という芦屋の医師を見つけ出した。当時、阪大医学部の学生だった伊藤は若林の大ファンだった上に、タイガース選手に宿舎を提供するなど密接な関係を取っていた。伊藤は我流のスコアで45年正月大会の5日間の記録をとっていたのだ。

タイガースの選手達

阪神の選手は球団に保護されて車両工場や武庫川の川西航空機で働いていた者が多かったと言う。
電鉄史などから当時の阪神電鉄本社の動きを見ればわかるが、44年夏に拡張されていく川西航空機のために武庫川線を開通させた。45年1月には甲子園線 中津浜−浜甲子園を廃止させ、この部分のレールを除去して供出し、廃線区間は川西航空機の工場拡張に使用した。このように様々な突貫工事があり、電鉄の技術者・作業者が不足していた。藤村選手なども野球以外の時間は現場で土方をやっていたと言うが、猫の手も借りたい程に工事があったわけだ。
阪急は西宮球場の中にグライダーの研究所を作り選手を確保していた。名古屋軍は親会社が球団から手を引いたが赤嶺氏の尽力で産業軍と名を変え、工場に選手達の働き口を見つけた。朝日軍は田村駒からやや距離を置いて橋本氏を中心に御坊の工場で働いていた。戦時中でもこれらの球団の首脳陣(必ずしも球団経営者がやったのではない)は球団運営を辞めずに選手の仕事を見つけ、生活させながら野球を続けさせていたのです。

45年 正月野球

1945年、宝塚に住む阪神・田中義一常務の呼びかけに従って、毎年恒例の正月大会を1月1日から5日までの5日間 甲子園球場と西宮球場にて開催した。参加は関西地区を中心に阪神・阪急・朝日・産業の4球団の選手達だった。
さすがに徴兵・徴用で選手数は不足していたが、合同チームとすれば何とか2チーム編成できた。
猛虎軍(阪神・産業) 対 隼軍(阪急・朝日)の対戦となった。

1月1日の甲子園球場の観客数はバックネット裏にわずか500人程度だったようだ。歴史の証人はわずかな人数しかいなかった。試合前には少量ながら貴重な酒がふるまわれたという。

登録メンバー

隼軍                 猛虎軍
投手 内藤幸三(朝日) 投手 若林忠志
    野口  明(阪急)     呉  昌征
    小暮英路(阪急)
捕手 広田修三(朝日) 捕手 門前真佐人
    安田信夫(阪急)     藤野義登(産業)
内野 菊矢吉夫(朝日) 内野 松尾幸造(産業)
    上田藤夫(阪急)     本堂保次
    井上義男(朝日)     藤村富美男
    酒沢政夫(朝日)     金山次郎(産業)
外野 三木久一(阪急) 外野 中野道義
    坪内道則(朝日)     塚本博睦
    畑中時雄(阪急)     金田正泰
    田中雅治(朝日)     川北逸三
    西村正夫(阪急)     大沢紀三男(産業)

1月1日 猛虎スタメン

1番 中堅 塚本
2番 右翼 金田
3番 二塁 本堂
4番 三塁 藤村
5番 捕手 門前
6番 投手 若林
7番 遊撃 金山(産業軍から参加)
8番 左翼 中野
9番 一塁 松尾(産業軍から参加)

全10試合の試合結果

1月1日 猛虎(若林)9−3隼(内藤) 猛虎(呉)8−3隼(小暮・野口)
1月2日 猛虎(若林)12−3隼(内藤・安田)  猛虎(呉)6−1隼(小暮)
1月3日 猛虎(藤村)5回中止 隼(酒沢)
1月4日 猛虎(若林)2−3隼(酒沢) 猛虎(呉)6−1隼(野口・内藤)
1月5日 猛虎(若林)6−3隼(内藤) 猛虎(呉)9−2隼(酒沢)

5日間の試合を終えて 「3月に、再び試合をしよう」と誓い合って解散した。既に召集令状を受けていた藤村冨美男達は、この試合を終えてから戦場へ向かった。

44年シーズン

1945年甲子園


げんまつWEBタイガース歴史研究室