田宮選手のA級10年選手移籍

田宮謙次郎外野手はA級10年選手の権利を得て行使し、大毎に移籍しました。
なぜ田宮選手はタイガースを出る事になったのでしょうか。当時の戸沢球団代表が悪いのでしょうか?
例えばベースボールマガジン59年2月号の大井広介さんのコラムのように当時は一方的な解釈・主張ばかりが報道されているだけなので、単に「フロントがせこい」と考えられがちです。関三穂さんの「プロ野球史再発掘」を参考資料とし、真のタイガースファンの為に事件を解説します。


10年選手制度と制度の欠陥

10年選手制度はA級B級の2種が存在したようです。
同一球団で10年間を過ごした選手はA級10年選手となり
2つ以上の球団に渡って10年間を過ごした選手はB級10年選手となります。

A級は「移籍自由の権利」もしくは「10年目のボーナスを受ける権利」を選択する事ができました。
B級は「ボーナスを受ける権利」のみを得ます。
10年以後3年毎に同等の権利が生じます。ただし一度A級の権利を行使して移籍すると同一球団での13年在籍であってもB級13年となり、移籍の権利は消失するのが筋です。

しかし、ボーナスを受取った後に移籍の権利が残るのか、消失するのか。そこが明文化されていなかったようです。 権利の解釈の差で野球連盟・球団・田宮選手の間で大きな誤解を生じるきっかけとなったようです。統一された見解が書面にて配布できていなかったのです。

現在、我々は1000円出せば本屋で野球協約を購入できます。
野球のルールすべてがそこに書かれており、想定外の事態まである程度カバーできていると思われますので、協約の解釈の違いによる判断の違いが発生しません。
この当時と現代の差はそこにあると思います。

田宮選手側の背景

東都大学リーグで首位打者を獲得した田宮謙治郎には、プロ球団からの勧誘が殺到しました。日本大学在学中のある日、タイガースの富樫興一代表が田宮を訪れて「中退入団」を説得し、契約に成功しました。その翌日に巨人のスカウトが訪れたにも関わらず、1日早かった義理を立ててタイガースに入団しました。もちろん関東育ちの田宮は巨人ファンでした。田宮は、このように義理と契約を重んじる人だったと言う事が伺えます。もっとも真相としては、3年契約だったので「3年経ったら巨人に移籍してもいいや」という気持ちで入団したようですが。

タイガースに入団してから、貴重な左投手として2年目にノーヒットノーラン直前という快投を演じましたが、肩を痛めました。4年で投手を断念し、同じ左打者の松木謙二郎監督の指導の下で打者として急成長する事となります。
1954年にレギュラーをつかみ、初の3割を達成。55年には藤村富美男から実力で4番を奪い取り、56年・57年も3割を打つように、順風に成績を伸ばした。
10年目の58年の契約をするにあたり、3割を3度達成し、4番を打っていた自分の給料はタイガースでは11〜12番目に過ぎない事に気付いた。月給は25万円ぐらいが妥当かとも思っていたが、とりあえず22万円から1万円アップの23万円で了承した。その契約の場で「来年、もしぼくが3割打ったら、10年目だし、自分の権利を有効に生かしたいと思うから、ぼくの言う事を聞いてください。今年はこれで辛抱します」と戸沢一隆代表に宣言したそうだ。
この年も3割2分の高打率で初の首位打者を獲得した。さぞかし10年選手のボーナスには期待に胸が膨らんだことだろう。

交渉の難航

田宮自身はあくまでも移籍する事は考えていなかったようだし、球団も放出することは考えていなかったようだ。

しかし交渉は難航し、5回に及んだ。 これは球団から初回に提示された金額があまりに低かったためです。
戸沢代表は藤村排斥事件の時も選手の中に入って話を聞き、金銭面での問題を大幅に改善した人です。だから単なる金銭面だけの問題ではないのでしょう。田宮も「戸沢さんの考えているのとは違う方向に行った」と語っています。実際、田宮選手も義妹の結婚式などがあり、実家のある関東にいる必要があったため戸沢代表とはあまり会えていなかったようだ。
当時の報道、特に大井広介氏が「田宮氏から聞いた」と語る数字が怪しいのは、田宮の阪神残留希望額を1800万円、阪神の最終提示額を1700万円としている事で、数字だけが一人歩きしていたようです。
田宮によると、大毎は3000万円、タイガースが最終の線で2500万円で、本人が言うに金銭面では「そんなに違わない」という事だった。
問題は球団側の初回提示条件が低く、1500万円から2500万円まで徐々に上がった事だった。それには次章のような理由があった。

制度解釈の不明解な点

鈴木龍二セ・リーグ会長の言葉。
「阪神では田宮君の要求を受け入れる用意はあったのだよ。実を言えば。ところがね、当時のコミッショナーは井上さんだった。A級選手がそのクラブと再契約をした場合には、十年選手の権利は残る、他のクラブに行ったらB級選手になるということを言った。ところが違うのだ。もとのクラブと再契約しても、いわゆるB級に落ちるのだよ。井上さんの解釈、解釈というのじゃないけれども、コミッショナー機関が、そのクラブと契約したら、やはりA級であるという見方を一時していた。そうするとクラブとしては、来年また動かれる恐れがある。(略)」−プロ野球史再発掘2巻96頁からの抜粋−

井上さんというのは、65年に殿堂入りした井上登コミッショナーです。東大法学部を卒業して弁護士になり、プロ野球2リーグ分裂後に契約制度自体を明確にした人ですが、彼の解釈に問題の最大の原因が潜んでいました。
現在のFA制度では宣言すれば残留しても権利行使となります。10年選手制度もボーナスをもらった時点で権利行使とならなければおかしいのです。ところが井上コミッショナーの解釈ではボーナスをもらっても翌年再び移籍のチャンスが残ると言う事になります。これでは球団は十分なボーナスを支払う事が出来ません。
田宮も「同一球団に留まればボーナスをもらってもA級選手のままだ」と思っていたようですから、翌年も権利行使をする恐れが十分にありました。
タイガースは制度の盲点がある事に気がつき、この部分を明文化してくれとの要求を連盟の鈴木会長に出していました。鈴木氏は「球団としては翌年出られたら大変だという不安があった。不安がなければ再契約していたと思う。そのへんが明確でなかったから、戸沢君は几帳面だし やはり明確にするべきであった。ところが、こっちは(連盟は)モタモタやっているしさ、そういった時間がない。」と語っている。
だから、この移籍事件の根本たる原因は連盟にあって、阪神球団にあったのではないのです。
この一件以降、10年選手に対する協約が改訂されています。が、この年の田宮選手の件には間に合いませんでした。

かきまわす世論  本当の阪神ファン?

獲得する側の他球団は移籍によってその後の移籍の権利は消失すると保証されている。阪神電鉄としては、同等の額を出すためにも、ボーナスを出せば移籍の自由がなくなると言う確証が欲しかった。それが得られないので、結果的に徐々に金額を上げていく事になってしまったのだ。
交渉が長期化すれば、マスコミは「金にうるさい田宮」「せこい球団」と言うようにたたきます。両者とも冷静に連盟の対応を待てるような心境ではなくなります。田宮選手は球団がぐずぐずしている事に対して不誠実という意識を持ち始めました。
さらに話をややこしくする二人の人物が登場します。
心斎橋の蒲団屋で球団の顧問(?)だった西川道夫さん、タイガース東京後援会の山村さん。二人はタニマチのようなもので、タイガースを愛する気持ち(?)から、勝手に残留工作を行いました。協約とか契約とかコミッショナーとか、内情を全く理解せずに「いったいいくら欲しいのだ、わしが球団に掛け合ったる」と金の話だけに走った為に、さらに話を食い違わせた。そして話の責任者である戸沢代表ではなく野田オーナーに直接交渉したため、かえって話を混乱させてしまった。いかにも阪神ファンらしい勇み足でした。余計に「田宮=金」という世論が強まり、完全なる決裂の原因となりました。
山村氏には前科があるのです。54年の藤村排斥事件の時も勝手に動いて田宮ら排斥運動側のリーダーであった金田正泰を時期草々に寝返らせた。田宮は金田の寝返りで煮え湯を飲まされたのだから、山村氏が出てきて良くなることは何一つ考えられない。

移籍

タイガース側が、低い提示額から小出しに増額していったのは、そのような契約のからくりがあったためです。
阪神電鉄本社としてどう考えていたかは別として、少なくとも球団トップの戸沢代表は慰留に苦心していました。しかし、世の中がそれを許しませんでした。タイガースは最終の条件が出るまでに時間がかかりすぎた。
大毎側の窓口は藤村監督排斥事件の先導者として解雇された青木一三(元タイガーススカウト)だったので、同年代の旧知の仲だった。大毎側の交渉はスムーズであったろう。
最後に田宮は大毎の松木謙治郎に相談に行ったと青木一三は語る。タイガースの中に、選手が信頼して相談できるOB・ベテランがいなかった事も問題だったのでしょう。結局、松木が退団した大阪球場事件の尾を引いているのです。

長い混乱の中、12月15日 事態に収拾をつけるため球団側は田宮に契約する気がない旨を伝え、田宮は大毎に移籍した。

結果

もう少し交渉に時間と余裕をあげれば方向は変わっていたはずだ。とりまく人たちは本当に阪神のために動いたのだろうか? いや、彼らは邪魔をしたのだ。
球団側の意見を正しく報道したマスメディアが存在しないのだから、正しい情報は皆無。ファンは何も内情を知らないのだ。マスコミは世論を煽りすぎ、その結果新聞だけは売れ続けた。
2000年代になっても、いまだ十分な調査をせず「フロントがせこいから田宮が辞めた」という事が平気で書いている本が多数存在する。ファンが知らない事が多いのは当然だが、その結果が大切な選手を追い出す事になるとは絶句だ。

阪神と決裂していた田宮は、後に設置されたタイガースOB会で二代目のOB会長として活動され、88年に村山監督のヘッドコーチとして入閣された。一度は決裂した選手がOBとして復帰し、活動されることはうれしい限りである。
「プロ野球史再発掘」での対談の時は田宮選手にしこりが見られます。鈴木竜二氏の証言を引き出して田宮氏の誤解をほどき、タイガースに田宮氏を帰した関三穂さんの週刊ベースボール紙上の活動は大きく賞賛するにあたる。


参考資料
「阪神タイガース昭和のあゆみ」  阪神タイガース
関三穂著 「プロ野球史再発掘」  ベースボールマガジン社
朝日新聞 縮刷版
毎日新聞 縮刷版

げんまつWEBタイガース歴史研究室