見掛社長時代に球団代表も経験したが、逆にこの経験が仇になったのかもしれない。
三好社長の引いたフロント改革を、より明確にして野村克也を招聘した。しかし外国人の招聘で監督と軋轢を生じた。
球団代表時代はフィルダーの2年目の契約に失敗しヤクルトのパリッシュを獲得、社長になってからは1塁しか守れないで大豊と守備が重なるジョンソンと成績を残せなかったブロワーズを獲得。アキレス腱はフィルダー獲得で信頼しすぎた外国人ルート(姫路の某歯科医)だったろう。
最初に外国人で失敗した事で、外部招聘の野村を使いこなす事が出来なくなり、早々の失脚につながった。
1940年生
大阪府立市岡高校
タイガース総務部長
84年 10月23日 阪神タイガース取締役に就任
87年 1月1日新設された球団本部の副本部長を兼任 7月1日 取締役解任 電鉄復帰
88年 6月10日 阪神タイガース常務取締役に就任 古谷代表自殺に伴い球団代表に就任する
90年 代表解任 阪神総合レジャー出向 タイガースゴルフクラブ支配人
98年 阪神タイガース代表取締役社長に就任 野村克也氏を監督に招聘
99年 獲得した外国人、ブロワーズ・ジョンソンの処遇をめぐり監督と対立
01年 3月8日 成績不振により途中解任