富樫興一   とがし・こういち

慶大在学中は野球部の名プレーヤーで、昭和初期には関西を代表するノンプロ野球選手だった。
球団創設・戦後の混乱からの復帰など球団の創成期を乗り切った。電鉄経営陣との風通しがよく、電鉄と球団、連盟をつなぐ太いパイプ役であった。


1890年生
出身地   山形県
出身校   米沢興譲館  慶應義塾大学
ノンプロ   全大阪 神戸ダイヤモンド倶楽部

12年 慶大時代・香枦園グランドでの慶大−マニラ米軍選抜戦にライトで出場 
    卒業後、全大阪入り
17年 神戸ダイヤモンド倶楽部結成
19年 阪神電鉄入社 初代甲子園球場長

35年 阪神電鉄事業課係長であったが、12月10日大阪野球クラブ専務取締役・球団代表に就任
45年 終戦時は米沢に疎開 次男・富樫淳が入団
50年 脳溢血で倒れ、阪神電鉄を退職

53年 セーリーグ顧問に就任 61年まで
64年 逝去

功績
・球団創設時は関大OBの田中義一ら実務部隊と阪神電鉄役員との間の根回し役に徹した。
・50年セ・パ分裂時には、巨人市岡忠男と緊密に連絡を取り合い、セ・リーグ残留の英断を下す。しかし真相を知らない各方面から非難の嵐をうける。


げんまつWEBタイガース歴史研究室