現在の岡山県でのプロ野球興行は必ず山陽新聞社か岡山日日新聞社の後援となっている。
岡山の職業野球興行は最初に合同新聞(現在の山陽新聞)の共催で進められた。山陽新聞とタイガースの強く長い関係が現在の倉敷でのタイガース戦までつながっている。岡山県下にタイガースファンが多いひとつの理由と言える。
戦後まもなくの岡山でも野球熱は高かったが、六校戦が岡山師範(現在の岡山大学門田地区)にて行われていた。一般の産業野球大会は東山球場(現在の奥市球場の場所)で行われていた。
合同新聞の玉野支社後援で1946年12月に岡山県の玉野市にて職業野球(阪急対阪神)を興行した所、いたって好評だったので岡山市内でも職業野球を開催することになった。
1947年、有料の興行試合は岡鉄野球部が主催し、合同新聞社の後援にて三門の関西中学のグラウンドを使用して行われた。これは現在の関西高校のJR吉備線側にあるグラウンドです。関西中学野球部は1895年創部しており、1900年に現在地に移転した際に野球グラウンドとして整備されています。関中グラウンドにてタイガース戦以外にもいくつか有料試合が行われていますが本稿では記述しません。 |
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絶大な人気のタイガースと、この年に2人の岡山出身選手を新人で入団させた阪急軍の対戦。新人選手とは関西中出身の矢部滋と玉商出身の早瀬猛の事で、前哨戦に彼らの出場する新人戦を組んだ。
1947年3月26合同新聞記事
「あす 待望の球戦 関中球場に阪神阪急両軍来征」
岡鉄管内未復員軍人遺家族援護基金募集日本野球戦
十時 前哨戦 両チーム新人混成軍 対 オール岡山軍
零時半 阪急軍 対 阪神軍 |
1947年3月25日
オール岡山軍4−3新人軍
試合が決定したのは7回の大野の本塁打による。
新人軍は松本太、星沢純が登板したが、全岡山・大野投手の投打にわたる大活躍でプロ側が敗戦した。
阪急軍1−5タイガース
阪急 |
0 0 0 0 1 0 0 0 0 |
1 |
タイガース |
0 0 0 3 0 0 0 2 A |
5 |
勝利投手 梶岡忠義 敗戦投手 森弘太郎
4回裏 土井垣の本塁打等でタ軍3点
5回表 阪急 梶岡の押し出しで1点
8回裏 藤村のツーランで2点
翌1948年は12月14日に阪神南海の四国九州中国遠征11試合の初戦として再び関西高校(学制改革により高校となった)にて開催された。
1948年12月15日 山陽新聞記事
「南海ついに制勝」投手交代が阪神の失則
山陽新聞社後援の日本野球南海対阪神戦は14日岡山市関高球場で挙行。8−5で南海勝利 |
この秋頃から新人戦の前座試合がなくなり、試合前にイベントを行うことになった。イベントはホームラン競争だった。
ホームラン競争 |
阪神
南海 |
17
12 |
土井垣10 藤村4 玉置3
飯田6 堀井3 笠原3 |
タイガース5−8南海軍
タイガース |
0 0 0 1 2 0 0 2 0 |
5 |
南海 |
0 0 0 2 0 6 0 0 A |
8 |
勝利投手 柚木進 敗戦投手 塩見栄一
柚木と御園生の先発
4回表 藤村の右越本塁打
4回裏 河西をランナーにおいて堀井が中越本塁打
5回表 白坂、呉がそれぞれ本塁打
6回裏 交代した塩見から柚木の本塁打を含む6得点
8回表 土井垣のタイムリーなど2点
1949年は3月2日にて巨人戦を開催。これは阪神巨人の高松岡山遠征だった。球場にてさまざまなイベントがあったが、試合後に読売新聞岡山支社が岡山市内で巨人軍ファンのつどいを開催した。新聞社同士の強い勢力争いの色が伺え、以後岡山県下で巨人の試合が少ない理由(他球団の保護地域でないが主催試合がない)が想像できる。
ホームラン競争 |
巨人
阪神 |
19
19 |
千葉8 平山7 青田4
安居4 藤村7 別当8 |
阪神11−2巨人
巨人 |
0 0 0 0 1 1 0 0 0 |
2 |
阪神 |
4 0 0 0 0 0 7 0 A |
11 |
勝利投手 内山清 敗戦投手 野草義輝
本塁打 藤村富美男2 平山菊二 萩原寛
二塁打 田中資昭 別当薫 安居玉一2
岡山県には1949年5月に倉敷市営球場が、また岡山市内には1951年に岡山県野球場が開設され関西高校グラウンドでの有料試合は以後行われていない。 |
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