1939年の北海道遠征では「野付牛」という場所で野球をやっています。野付牛とはアイヌ語の『ヌプンケシ』から来ているらしく、『野の一方の端』という意味だそうだ。1942年に野付牛町が市制となって北見市になった。
野付牛 (オープン戦) 1939年7月5日 タイガース6−5ライオン 本塁打 門前・皆川
この興行ではライオンと遠征で毎日北海道の各地を転戦します。
1日の函館から札幌・小樽・旭川・野付牛・帯広・釧路 1日あけて9日が室蘭でした。旭川−北見は今の特急オホーツクでも3時間ですが、当時は倍ぐらいの時間がかかったはずです。遠征中に車中泊もたびたびあったようで、これこそがまさに「死のロード」というものではないでしょうか。 |
小樽新聞1939年7月3日に掲載されている日程表では野付牛町の野付牛鉄道球場(青枠で跡地を記載)で試合を行うと記載されているが、阪神タイガース昭和のあゆみでは野付牛中学校庭(赤枠 北見北斗高校)で行われたと記載されています。
現在の北海道北見北斗高等学校の校舎は昭和40年代に建替えられていますが場所は当時のまま。北海道らしい整然とした区画の町並みの中の広い敷地のグラウンドを持ち、「なるほど職業野球の興行も十分可能だ」と思えるものです。
この遠征ではどの球場でも観客5千人以上を動員しているので、鉄道球場では手狭であり野付牛中学グラウンドに変更したのではないかと推測できます。
北見市の総務部市史編さん事務室に問い合わせたところ、詳しい資料は見つかりませんでした。
しかしながら市役所の呼びかけにて当時の状況を知る方が見つかり、野付牛中学校に観戦に行ったとの情報をいただきました。 |
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