神戸市内の山陽電鉄は地下で走っている。長田の次の西代で降りて階段を上がれば、駅前に神戸市民球場があった。グリーンスタジアム神戸が出来てその使命を終えた球場には、阪神淡路大震災後にグランド内に200戸を超える西代仮設住宅が建てられた。土地は神戸市のものだったため、他の仮設住宅が閉鎖されてからも最後まで残されていた。
2001年の暮れに、神戸市民球場のバックスクリーンが残されているのを車で走りながら確認した。今のうちに撮影しておこうと今回カメラをもって訪問したら、すでにバックスクリーンや道路側の施設は完全に取り壊され、工事現場と化していました。まだ奥にわずかながらスタンドの残骸が見えます。また3塁側の方にネットが残っているので、回りこんで見ることにしました。
回り込んだところバックネット裏の内野スタンドはまだ残っていました。 |
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タイガースが神戸で初めて公式戦を行ったのは、1939年5月14日のライオン戦で5−0で西村幸がシャットアウト。次に42年8月7日の南海戦は7−5で御園生が勝利投手となった。
戦後は1953年5月20日の広島戦、3−4で負けました。梶岡の完投で谷田がホームランを打ちました。
翌54年は2試合 6月8日の広島戦が2−3で敗戦、敗戦投手はまた梶岡です。9月16日の国鉄戦は13−3で初勝利、駒田・●真田のリレーで藤村選手が本塁打を放ちました。
55年は7試合開催しました。
4月21日広島戦 6−5で勝ち 真田・●渡辺省
6月 9日広島戦 6−2で勝ち 大崎・●西村一・渡辺省
7月 9日国鉄戦 0−2で負け ○西村一
7月27日広島戦 2−3で負け 大崎・○西村一
7月28日広島戦 1−3で負け ○藤村隆・小山・西尾
9月 1日広島戦 6−5で勝ち 大崎・●西村一
9月14日国鉄戦 1−2で負け ●西村一 |
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通算6勝6敗で五分だった。不人気の広島・国鉄戦を行ったのは、便利がいい球場で試合をし、不人気カードの観客を増やそうという営業的な戦略でした。
神戸市民球場で最も大切な事、神戸が新日本リーグの阪神ジャガースのフランチャイズ地であり、ここがホームグラウンドだったという事です。
54年3月28日の阪神ジャガース襲名披露試合を神戸市民球場で行ったほか、幾多の試合をこの地で重ねた。残念ながら市販されている書物に新日本リーグについて示した記録があまりに少ないため、この頃の話についてあまり語れることはない。調査が進めばまた報告したい。
翌年から始まったウエスタンリーグでは、再び一軍の試合前に前座で試合を行うようになった。平行して2年目までは新日本リーグもやったようだが、わずか2年のホームグラウンドだった。 |
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この地は長田区蓮池町。もともとは条里制耕地の潅漑池として奈良時代に作られたひょうたん型の17400坪の広大な池だった。大正末期から埋め立てが一部始まっていたが、1928年に御大典記念行事として神戸市民運動場を着工、32年4月に完工した。野球場のほか、陸上競技場、庭球場、水泳場があり、甲子園や明治神宮外苑に並ぶ規模だった。
野球場はグランド面積14060平方米、両翼96m、中堅114m、収容17000人だった。
戦前は兵庫県主催の行事や早慶OB戦などにも使用された。
終戦後は1952年2月まで進駐軍に摂取されており、解除の翌年から再びタイガースも使用した。
高校野球の兵庫県大会や軟式野球の大会など、さまざまに使われたが1985年のユニバーシアード以降、主な目的はグリーンスタジアムに移った。 |
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