初の富山遠征は1946年7月15日のセネタース戦だった。金沢市設野球場で行われた2試合に続く北陸シリーズの最終日の興行だった。この北陸シリーズにはタイガースのほかセネタース・グレートリング・ゴールドスターが帯同し、1日に各1試合で2試合 3日で6試合の興行だった。
富山市ではなく高岡市、高岡工専の校庭で行った。高岡工専は現在の富山大学工学部、場所は高岡駅の北側すぐ近くにあった。大学は移転したためこの当時の場所にはない。
この航空写真は1975年頃のもので、タイガースが野球を行ったグランドはすでにない。上部の青緑色の4塔の学舎の部分に上がホームベースとなる位置でグラウンドがあったものと思われる。
タイガースの試合の前に第一試合としてグレートリング対ゴールドスター戦が行われた。
タイガース14−10セネタース
レフト外野の向こうに学舎が見えるような環境で、職業野球を興行する雰囲気とは思えなかった。ゲーム前に小石こそひらったものの両軍合わせて14の失策が起こるほどグランドコンディションが悪かった。それでも5000人の観客が詰め掛けたという。
先発した野崎泰は5回まで大量7失点、しかし6回に連打と本堂の3ラン、藤村のソロの2発でタイガースが8−7と逆転。しかし野崎泰が崩れ、急遽センターから呉がリリーフにまわる試合。それでも8回4点、9回2点と得点を重ねた。 |
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1948年7月19日、二度目の北陸遠征では富山神通球場を使用している。場所は県営球場(写真下左の円内)と川を隔てて反対側の現在学校がある場所(写真下右の円内)
1946年7月の米軍による航空写真(写真左)で神通グラウンドがある事がわかる。トラック状の普通のグラウンドで、職業野球を行うためにグラウンドと臨時のスタンドを整備したようだ。グラウンドはしっかり整備されていたのか2年前の高岡のような大味の試合になるような事はなかった。
タイガース4−5南海
若林と別所の投げあいで共に完投したが若林が投げ負けた。前日の金沢で一旦首位に躍り出たタイガースは再び2位に転落した試合だった。 |
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1950年7月に富山で初めて本格的な富山県営球場が対岸に完成し、神通球場は学校用地になった。
県営球場は1950年8月15日の西日本戦を皮切りに1957年まで11試合と、65年67年78年80年に各1試合 合計15試合が開催された。
アルペンスタジアムが完成する91年までは毎年のようには阪神が遠征してくるわけではなかった。 |
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