藤村富美男の呉


ミスタータイガース藤村富美男の出身地、広島県呉市。
瀬戸内海から江田島や音戸の影になる天然の良港として古くは村上水軍の本拠地として、明治以降は海軍呉鎮守府が置かれた日本一の軍港です。
現在は海上自衛隊呉基地や海上保安大学校が置かれているほか、造船(IHI)鉄鋼(日新製鋼など)などの産業が発達している。現在でも人口は23万程度と広島県下で第三の人口を誇る都市だが、第二次世界大戦前はなんと40万人もの人口を誇った。重要な国土拠点として国道2号線から旧一級国道31号で接続されている。
阪神タイガースのOBでは藤村富美男・藤村隆男の兄弟の他、名手塚本博睦、後にカープの監督になった野崎泰一、甲子園で富美男とバッテリーを組んだ原一郎、富美男の控えだった橋本正吾、呉港中学の優勝パレードにあこがれた少年長原孝治、新制高校となった呉港高校からの唯一の入団者だった松岡一雄らがいる。
呉市は海軍の街。
二河公園は大勝5年に帝国海軍の射撃場だった場所を大正天皇の御大典記念事業として公園に整備した歴史ある公園です。
写真は球場東側にある殉職者招魂碑です。までの呉海軍工廠の殉職者を祀る招魂碑として大正11年に建設され、現在までの呉海軍関係非戦闘員が合祀されています。
二河球場の正面には戦死者忠魂碑があります。
よくよく見ると公園周辺に多数の埋められた防空壕跡があります。見てわかる事は、球場のある二河公園が海軍に強く関係する土地だということです。もちろん、呉市内を歩けばいくらでも海軍の遺跡がありますが、二河公園周辺は海軍工廠の関係者の家の中心だったのです。そのひとつが藤村家でした。
二河公園には大正時代から球技が行えるグランドが整備されていました。海軍工廠では野球が盛んだったのです。
呉市二河球場は1951年に建設されました。大阪タイガースは球場が出来た1951年に松竹と試合を行いました。
1952年〜1956年の5年間は19試合広島カープと二河球場で野球を行っています。
私の理解では、日本球界でまがいなりにもフランチャイズ制度を始めた1952年から広島市民球場が完成する1957年までの間という事かと思います。カープはナイターが可能な広島市民球場が出来るまで本拠地には苦労しましたが、その5年間に呉で主催試合の2割近い50試合を行いました。
50試合の4割近い19試合がタイガース戦だったのは、やはり呉市が生んだスーパースターの藤村富美男がお客を呼べる選手だったと言うことでしょう。呉にタイガースを呼べば儲かったと思われる。
二河球場の横に、写真のように整備されたグランドがあります。このあたりは二河球場が出来た頃に陸上グランドに整備されて長細いトラックになりました。現在はトラックを遊歩道として開放してその内側にネットを設置しているので狭くて野球が出来そうにありません。
二河球場が出来る前はもう少し二河球場側に食い込んでいて野球が出来る広さのグランドでした。写真の右奥の方(写真からはみ出す位置)にホームベースがあり、写真の左奥の木々がライト外野側です。写真を撮っている側は外野の左中間側です。
このグランドで海軍工廠チームが野球を行っていた。野球選手だった長兄のプレーを見た藤村富美男だったのだろうと思います。
大阪タイガースでは1937年の正月野球から二河球場が出来るまでの間、ここにあったグランドで幾度かオープン試合を行っています。
狭い土地に最大40万人の人口を抱えていた呉市では山の斜面に多くの住宅が建てられました。二河球場の西側は鉢巻山で、斜面に住宅が立ち並んでいるのがよくわかります。このあたりが上山手町で現在の住所では山手1丁目と言われます。藤村の生家は下山手なので川沿いに少し南の呉三津田高校あたりです。下山手は海軍関係の町です。呉三津田高校は旧制呉中学で海軍の優秀な子息が通う学校でした。
藤村の母校の大正中学は呉駅から北に伸びる市の中心・今西通にありました。藤村富美男在学中の1933年12月に呉港中学に改称したところ、翌年夏の甲子園で優勝しました。
呉港中学は空襲により広町に移転。
現在も広町に呉港高校として健在です。

ところで
この写真を撮っている場所、体育館の前の道路ですが、昔の広球場があった場所です。
タイガースとはまったく関係ありませんが、呉広町球場で1952年に1試合だけプロ野球の試合をやってるんですよね。いつのまにかつぶして体育館になっていました。

2012年3月17日制定

参考文献
 真虎伝 藤村富美男 新評論

げんまつWEBタイガース歴史研究室