タイガース サウスポー伝説

ピンクレディーが好きだった。数多くのヒット曲の中でも、特にサウスポーが一番の名曲だと思っています。
「一本足打法の背番号1」に立ち向かった伝説のサウスポーは江夏豊に違いない、ピンクレディーは阪神ファンに違いないと勝手に信じていた。実際は違った。最近になってピンクレディの振り付けを見てみると、投球フォームは江夏というより権藤正利かもしれない。思い出は掘り返すものではない。すこしがっかり。


サウスポーまめ知識

左利きは英語でLeftyとなる。
Southpawは直訳すれば「南方前足掻き」(pawは犬猫が前足で引っかくような意味)だ。アメリカ南部出身の投手に左利きで力強く投げる投手が多かった事に由来するそうだ。南方で力強くというと仲田幸司投手はピタリだが、星野伸之投手は北方で軟投派だからLeftyの方が似合うかもしれない。

サウスポーという語源はもうひとつ説があり、「南側から」という意味かもしれないそうだ。ほとんどの球場は西向きにホームベースがあったので、一塁側が南だったという。甲子園は....違うな。

タイガースサウスポーの系図

年代 先発 リリーフ サブ 練習投手
1936 村田重治 渡辺一夫
1937 橋本正吾
1938
1939 三輪八郎 亀田敏夫
1940 三輪八郎 亀田敏夫
1941 三輪八郎
1942 三輪八郎
1943 三輪八郎
1944 呉昌征
1945 呉昌征
1946 呉昌征 森下博 松本太
1947 呉昌征 松本太
1948 呉昌征 塩見栄一 長原孝治
1949 田宮謙次郎 塩見栄一
1950 田宮謙次郎 西村修 塩見栄一
1951 田宮謙次郎 西村修
1952 田宮謙次郎 岩村吉博
1953 岩村吉博 山部濡也
1954 西尾慈高 栄屋悦男 岩村吉博 山中雅博 山部濡也 村川幸男 池田芳巳
1955 西尾慈高 栄屋悦男 山中雅博 秋光新二 山部濡也 柏木裕 村川幸男 池田芳巳 山地肇
1956 西尾慈高 土井豊 井崎勤也 秋光新二
1957 西尾慈高 土井豊 井崎勤也 秋光新二 大越弘
1958 西尾慈高 土井豊 井崎勤也
1959 西尾慈高 土井豊 和田功 前岡勤也 柴山宗守
1960 西尾慈高 太田紘一 土井豊 前岡勤也 柴山宗守
1961 伊奈努 太田紘一 土井豊 村上俊義 野崎洋 山本康夫 柴山宗守 安岡正博 山下一義
1962 伊奈努 太田紘一 村上俊義 野崎洋 山本康夫 安岡正博
1963 伊奈努 太田紘一 交告弘利 椎木孝彰 村上俊義 野崎洋 山本康夫 樋口和生
1964 バーンサイド 太田紘一 交告弘利 椎木孝彰 村上俊義 野崎洋 山本康夫 樋口和生
1965 バーンサイド 権藤正利 太田紘一 交告弘利 椎木孝彰 野崎洋 杉本郁久雄
1966 権藤正利 太田紘一 交告弘利 椎木孝彰 野崎洋 杉本郁久雄
1967 江夏豊 権藤正利 太田紘一 交告弘利 野崎洋 杉本郁久雄
1968 江夏豊 権藤正利 交告弘利 野上俊夫
1969 江夏豊 権藤正利 植木一智 野上俊夫
1970 江夏豊 権藤正利 植木一智 野上俊夫 但田裕介 畑口健二
1971 江夏豊 権藤正利 植木一智 野上俊夫 戸口美嗣 但田裕介 畑口健二
1972 江夏豊 権藤正利 植木一智 山本和行 野上俊夫 但田裕介
1973 江夏豊 権藤正利 植木一智 山本和行 野上俊夫
1974 江夏豊 山本和行 野上俊夫
1975 江夏豊 山本和行 村上雅則
1976 山本和行 上田卓三 遠藤伸久
1977 益山性旭 山本和行 上田卓三 遠藤伸久 土谷賢一
1978 益山性旭 山本和行 遠藤伸久 中原勇 前田友行
1979 益山性旭 山本和行 竹田和史 遠藤伸久 前田友行 吉竹春樹 枝川正典
1980 藤原仁 益山性旭 山本和行 竹田和史 遠藤伸久 前田友行 井沢武則 枝川正典
1981 藤原仁 益山性旭 山本和行 福間納 遠藤伸久 井沢武則 枝川正典 前田友行
1982 藤原仁 益山性旭 山本和行 福間納 遠藤伸久 井沢武則 枝川正典 前田友行
1983 藤原仁 益山性旭 山本和行 福間納 前田耕司 浜岡浩幸 井沢武則
1984 仲田幸司 藤原仁 益山性旭 山本和行 福間納 前田耕司 浜岡浩幸 井沢武則 高木孝治
1985 仲田幸司 藤原仁 益山性旭 山本和行 福間納 佐藤秀明 前田耕司 浜岡浩幸 井沢武則 高木孝治
1986 仲田幸司 藤原仁 遠山昭治 山本和行 福間納 佐藤秀明 前田耕司 服部裕昭 浜岡浩幸 高木孝治 井沢武則
1987 仲田幸司 藤原仁 遠山昭治 猪俣隆 山本和行 福間納 佐藤秀明 服部裕昭 多岐篤司 宮本四郎 高木孝治 井沢武則
1988 仲田幸司 遠山昭治 猪俣隆 山本和行 福間納 佐藤秀明 服部裕昭 多岐篤司 高木孝治 井沢武則 宮本四郎
1989 仲田幸司 遠山昭治 猪俣隆 福間納 服部裕昭 多岐篤司 井沢武則 宮本四郎
1990 仲田幸司 遠山昭治 猪俣隆 福間納 服部裕昭 多岐篤司 井沢武則 宮本四郎
1991 仲田幸司 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 西川佳明 服部裕昭 多岐篤司 近田豊年 井沢武則 宮本四郎
1992 仲田幸司 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 弓長起浩 西川佳明 服部裕昭 多岐篤司 中川申也 中村公信 井沢武則 宮本四郎
1993 仲田幸司 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 弓長起浩 服部裕昭 多岐篤司 中川申也 中村公信 安達智次郎 栗田智史 井沢武則 宮本四郎
1994 仲田幸司 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 古溝克之 弓長起浩 服部裕昭 多岐篤司 中川申也 安達智次郎 井沢武則 宮本四郎
1995 仲田幸司 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 古溝克之 弓長起浩 服部裕昭 多岐篤司 中川申也 安達克哉 井沢武則 宮本四郎
1996 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 古溝克之 弓長起浩 服部裕昭 林純次 高橋顕法 安達克哉 井沢武則 宮本四郎
1997 湯舟敏郎 猪俣隆 田村勤 古溝克之 弓長起浩 林純次 高橋顕法 酒井光次郎 マクドナルド 安達智次郎 服部裕昭 宮本四郎
1998 井川慶 湯舟敏郎 吉田豊彦 田村勤 古溝克之 弓長起浩 遠山奬志 クリ−ク 江坂政明 高橋顕法 メイ 服部裕昭 宮本四郎
1999 井川慶 湯舟敏郎 吉田豊彦 田村勤 弓長起浩 遠山奬志 杉山健人 清原雄一 メイ 安達智次郎 服部裕昭 宮本四郎
2000 井川慶 湯舟敏郎 吉田豊彦 星野伸之 田村勤 吉野誠 弓長起浩 遠山奬志 西川慎一 杉山健人 ラミレズ 安達智次郎 服部裕昭 清原雄一
2001 井川慶 吉田豊彦 星野伸之 吉野誠 弓長起浩 遠山奬志 西川慎一 面出哲志 安達智次郎 服部裕昭 清原雄一
2002 井川慶 ムーア 星野伸之 吉野誠 弓長起浩 遠山奬志 西川慎一 橋本武広 中林祐介 面出哲志 原田健二 安達智次郎 服部裕昭 清原雄一
2003 井川慶 ムーア 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 吉野誠 柴田佳主也 中村泰広 三東洋 橋本武広 田村領平 中林祐輔 佐久本昌広 新井智 原田健二 服部裕昭 清原雄一 多田昌弘
2004 井川慶 前川勝彦 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 吉野誠 竹下慎太郎 中村泰広 三東洋 筒井和也 田村領平 中林祐輔 佐久本昌広 新井智 原田健二 服部裕昭 清原雄一 多田昌弘
2005 井川慶 前川勝彦 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 吉野誠 能見篤史 中村泰広 三東洋 筒井和也 田村領平 中林祐輔 佐久本昌広 新井智 原田健二 服部裕昭 清原雄一 多田昌弘
2006 井川慶 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 吉野誠 能見篤史 中村泰広 三東洋 筒井和也 田村領平 中林祐輔 嘉せ敏弘 原田健二 服部裕昭 清原雄一 多田昌弘
2007 正田樹 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 吉野誠 能見篤史 中村泰広 三東洋 筒井和也 小嶋達也 田村領平 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2008 正田樹 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 能見篤史 筒井和也 小嶋達也 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2009 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 ウィリアムス 能見篤史 筒井和也 小嶋達也 中村泰広 木興拓哉 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2010 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 藤原正典 フォッサム 能見篤史 川崎雄介 筒井和也 小嶋達也 高田周平 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2011 榎田大樹 岩田稔 下柳剛 江草仁貴 藤原正典 ザラテ 能見篤史 加藤康介 川崎雄介 筒井和也 小嶋達也 島本浩也 高田周平 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2012 榎田大樹 岩田稔 藤原正典 ザラテ 能見篤史 加藤康介 川崎雄介 筒井和也 小嶋達也 島本浩也 嘉せ敏弘 原田健二 中林祐介 清原雄一 多田昌弘
2013 榎田大樹 岩田稔 藤原正典 ザラテ 能見篤史 加藤康介 川崎雄介 筒井和也 小嶋達也 島本浩也 嘉せ敏弘 原田健二 高田周平 多田昌弘

伝説のサウスポー

長いタイガースの歴史の中で一番最初のサウスポーは村田重治投手と渡辺一夫だが、村田はわずか1年1試合の登板で大東京に移籍し、渡辺は登板なし。翌年入団した橋本正吾もわずか2試合で従軍した。公式記録に残る実戦登板は少ないが、公式戦の間のオープン戦に登板したり、左腕(阪急の山田、金鯱の内藤)相手の練習投手として重宝されたそうだ。創成期のタイガースは若林・西村幸・御薗生・景浦・藤村冨ら優秀な右投手陣に対し、左投手の割合が現在では想像できないほどに低い。

実績を残した最初の左腕は三輪八郎だ。40年8月3日巨人戦(大連)で巨人相手に達成したノーヒット・ノーラン試合は川上の強い2塁ゴロ1本以外は完全に凡打に抑えた好投だった。134試合登板で通算32勝、若くして戦火に散った。時代が違えばもっと活躍できただろうと惜しまれる。

戦後、不足する投手陣を補うために強肩を生かして本職の外野からマウンドに登ったのは人間機関車の1番バッター、呉昌征外野手。46年6月16日セネターズ戦でノーヒットノーランを達成したのだから、兼任投手とバカにはできない。「戦後の混乱期だがら打力が低くて出来ただけの事」と、本人は謙遜している。わずか31試合の登板ながら15勝で17完投と抜群の安定した成績を残した。

49年に日大を中退してタイガースに入団した田宮謙次郎投手は、後に打者転向して4番バッターとして活躍した事の方が有名だが、すばらしい左投手だった。50年3月16日国鉄戦では9回2死まで完全試合という快投を演じた事もある。左肩を故障するまでの2年間で12勝を上げている。

50年代から60年代はサウスポー受難の時代、本格的なサウスポーは不在だった。岩村・栄屋・井崎・秋光・西尾ら、期待された左腕が今一つ伸び悩んだ。最も、小山・村山ら、この時代の大エースに右打者も左打者も関係なかったのだが。
ようやく65年、タイガースは技巧派左腕の権藤正利を獲得する。移籍前年度はわずかに1勝しか出来なかった左腕は、結局タイガースで通算46勝を積み上げ、67年にはなんと最優秀防御率のタイトルを獲得するのだった。

67年、権藤正利が孤軍奮闘していたタイガース左腕陣にドラフト1位で江夏豊が入団した。入団時はストレートしか武器のない投手だったが、正確なコントロールと球威で6年連続奪三振・最多勝2回・最優秀防御率1回・沢村賞1回を獲得した。73年8月30日には中日戦で延長11回をノーヒットノーランし11回の裏には自らの本塁打で決着をつけた。開幕投手を6回努め、若林から村山まで常に右腕が勤めていたタイガースのエースの座を、左腕として初めて奪い取った。

72年入団の山本和行は通算116勝、700試合登板とタイガースの左腕で最も多い登板数を誇る。72年7月5日読売戦での初勝利を完投であげるなど、特に読売戦では執念が違った。先発に、リリーフにと大活躍だったが、特にリリーフとして最優秀救援2回、通算190セーブポイントをあげ、「勝ち試合の終盤7回以降はヤマカズ」というのが定番だった。

70年代後半、ロッテから福間納が移籍入団した。当初は先発でマウンドに立っていたが、最終的にはリリーフで活路を見出した。83年最優秀防御率タイトルを獲得し、84年は77試合登板とセ・リーグの最多登板記録を樹立するほどの信頼性があった。

80年中盤以降、仲田・遠山・猪俣らが左腕が次々と入団するが、彼らの成長は決して順調とはいえなかった。
しかし92年に実を結び、先発に仲田・湯舟・猪俣の3本柱、中継ぎに弓長、抑え田村という球団史でも最高のサウスポー王国を結成した。仲田幸司はエース格で92年に14勝を上げ最多奪三振のタイトルを獲得、湯舟はノーヒットノーランを達成し以後左の主戦投手として活躍、猪俣も通算43勝をとげた。弓長は年間51試合登板しタイガースの不動の中継ぎ投手の座を得た。田村は左サイドからの投球でリリーフエースとして一斉を風靡した。

99年 ファンを楽しませてくれたのは、年棒900万円でテスト生から復帰した遠山奬志の「松井封じ」だった。入団当初の破天荒な速球は見られなくなったが、正確なコントロールで読売の主砲 松井・高橋を完璧に押え込んだ。

01年井川慶は先発ローテーションに入り9勝ながら防御率2位に入る。02年には外国人左腕ムーアと共にローテーションの柱として共に二桁勝利を達成した。03年には 井川・ムーア・下柳の3人が二桁勝利を達成、リリーフの吉野・ウィリアムスと共に優勝に貢献した。

管理人のこだわり

ノーヒットノーラン
三輪八郎・呉 昌征・江夏豊・湯舟敏郎と4名が達成している。
右投手は数多いながらバッキー・川尻哲郎の2名しか達成しておらず、沢村賞投手の小山・村山両投手も達成していない。左は有利と言う事か?
江夏の件は別にふれるとして、湯舟敏郎のノーヒットノーランはおもしろかった。開幕から勝てない中、気分転換のつもりで捕手を山田から木戸に変えた試合で達成。よほど捕手との愛称がよかったのか、その後、湯舟といえば木戸というのが完全に定着した。「ユフさんの球は痛い」と ぼやく若手捕手もいましたが、それほど球威があったのでしょう。

期待の星 井崎勤也・野上俊夫・安達智次郎
破格800万円の契約金で入団した井崎、ドラフト1位の野上と安達、高校時代の甲子園の活躍で注目され、期待を一身に浴びて入団した3人の投手。全員に「紅白戦でまだ体ができていないのに会社の希望で登板させられて故障させられた」とのうわさがある。全員が故障に泣いたが、事実なのは井崎投手で、あとの2人は井崎投手の話からファンが作り上げられたでっち上げ。
井崎が中日を辞める時「やっと普通の人として結婚もできる」と言った。野上は南海で結局野手転向したが普通の選手には なりきれなかった。安達も幾度の改名と外野手転向を経験した。彼らにはやはり特別な重責があったのでしょうね。
安達は退団時に「阪神ファンに戻る」と宣言、半年後に名誉も何も捨てて打撃投手に転身する阪神ファンとしての生き方を選択した。

七夕男 益山性旭
ドラフト1位で入団した彼は、何故かわからないが1年に一回、夏前に見違えるような好投で完投勝利したとの伝説がある。記録を見ると、80年には1勝もしていない、82年の6月と83年7月、それぞれ1回ずつ完投勝利した事で、そういう伝説ができたのだ。毎年ではなくたった2度だ。しかし、毎年だったような錯覚を起こすほどに、その2試合の益山はすごかった。だから伝説になった。
後に、これほどの荒れ球投手が打撃投手になったのだから不思議、そしてコントロールがよくなって85年に現役復帰した....謎の投手でした。

密かに応援していたサウスポー
大鉄高校で甲子園に出場した4番でエースの前田友行投手、甲子園では16奪三振も記録したのに疲れからか準決勝では途中降板、内野手の浜口君がリリーフしたが大鉄高校は負けてしまいました。大阪のスターでした。
「こういうすごい投手は、きっとプロ野球に入るんだろう」 と思っていたのだが、ドラフトにかからずドラフト外入団したのが不思議だった。管理人は彼を見るために、生まれて始めて浜田球場に練習を見に行ったのだ。打撃投手をやっていました。
打撃投手を勤めていましたが、結婚して1年ぐらいで退団しました。

不可解な入団
林純次はドラフト指名された直後、困惑の涙を流した。トヨタの補強選手で都市対抗に出場したが、それほど目立っていたわけではない。ドラフト指名までスカウトの指名挨拶もなかったとか。まずは入団するべきかどうかで悩んだ。新人開幕一軍だったが、結局わずか2年で解雇。
「社会人でプレーし続けていればよかったのに阪神はなんという冷たい球団か」と思ったら、丁度プロ−アマ融和時代が到来しアマ球界に復帰し、東海地区の都市対抗の常連となった。アマチュアに復帰できた事は本当によかったと思う。

スクリューボール
右ではシンカーなのに左投手はスクリューという不思議な変化球。私はカーブ投手、弓長起浩が非常にコントロールよく投げるスクリューが好きだった。92年から私は誰がなんと言おうと、投げようが投げまいがスクリューは弓長と決めている。

謎の外人
ボブ・マクドナルド。97年シーズン中に突如彗星のごとく鳴尾浜に入団テストに現われ、9試合投げて消え去った。給料はごく安かったそうだが、9試合ならば安いだろうか? この時はあまりに突然すぎてスポーツ記者新聞さえも完全に出し抜かれた。

ノーコンが好き
益山性旭・藤原仁・猪俣隆・吉田豊彦、デビューしたての頃の仲田幸司や井川慶なんかもそう。左投手は球威で押して荒れ球の方が好き。巨人戦でバシバシ高めのストレートを投げ込んで完投寸前まで行った藤原、1回表の制球さえ定まれば完投してしまう猪俣、コントロールが改善されて4点差で9回2アウトまで完封で行ったのに悪い癖が出て4点取られた吉田豊。ど真ん中でも相手がつまってしまう球威が忘れられない。
鳴尾浜で始めて見た井川慶も、ムキになると四球連発ですごかったな。制球王・江夏は別格です。今好きなのは中林ですが、だんだんノーコンでなくなってくる、この進化の過程も好きです。


最終改定日:2013.7.19

げんまつWEBタイガース歴史研究室