知っている人は知っている、有名なドラフト小ネタを集めました。
極めて有名な65年の第一回ドラフトの裏話。
後に300勝投手となる育英高校の鈴木啓示は阪神タイガース入りを熱望していた。タイガース河西スカウトもドラフト1位での獲得を強く推薦していた。
ところが、河西の上司にあたる佐川スカウトは、中央球界では無名ながら岡山・香川では密かに活躍していた土庄高校の石床を指名する事を提案。佐川のスカウト生命を懸けての説得で石床の一位指名が確定した。
石床は球も速く、好投手として十分期待されたが肝炎を患い、結局実動4年1勝1敗に終わった。鎌田や三宅を発掘した佐川スカウトの眼力が間違っていたとは思えないのだが、なにしろ300勝と1勝では後々まで語り継がれる大失敗と言われても仕方ないか。
68年ドラフトの目玉は田淵幸一、東京生まれで六大学の大スタ−だった。田淵は当初から巨人スカウトの工作によって洗脳されており、巨人以外は拒否する姿勢を見せていた。
当時のドラフトは予備抽選で指名順位を決めて、順番で好きな選手を指名していけるシステムだった。
巨人より順位が早かった阪神は果敢に田淵を指名、入団交渉の権利を得た。巨人は昔から陰湿であり、水面下でタイガースに主力選手と田淵のトレードを提案するのだが、これが表に出て大問題となるのであった。田淵は阪神入団、後々までタイガースを愛してコーチとして復帰するのである。巨人の工作って、幼稚で何かくだらないと思いませんか。
68年ドラフト8位、北陽高校の長崎慶一。
大阪出身の隠れた好素材で密かにスカウトに期待された選手だった。「発掘したタイガース」「阪神ファンの長崎」と相思相愛の関係であったものの、プロ野球よりもサラリーマンとなる事を望んだ家族(母親)の大反対で入団交渉は決裂、長崎は法政大学へと進んだ。しかし法政大学でも主力打者として大活躍し、全球団の注目を浴びる。4年後の72年ドラフトでも阪神は指名の意志を持つものの、大洋にドラフト1位でさらわれた。再び家族の反対はあったものの大学で自信をつけた長崎はプロ入りを決意、リーグを代表する外野手として首位打者も獲得するほどの活躍を見せた。
タイガースは長崎の放出がうわさされた85年、池内を放出して一気に長崎をトレードで獲得。長崎は代打の切り札として85年優勝の原動力となった。
69年ドラフトの目玉、甲子園のスターであった青森・三沢高校の「コーチャン」こと太田幸司投手はタイガース入りを熱望していた。新聞報道でも太田のタイガース入りは決まっているかのごとく報道されていたが、ふたを開けてみればタイガースは大学選手権を制した東海大学の上田二郎投手を指名した。
エース村山が兼任監督になり、江夏の他にもう一人主戦となれる投手がどうしても欲しかったのだ。上田は地味ながら通算92勝を上げ、73年には22勝を上げる活躍をした。名を制して実を取った例だ。
73年、前年の甲子園に2年生で出場したものの無名だった高校生内野手「掛布雅之」が入団テストを受験した。1週間のテスト結果は合格であった。三塁手が弱かったチームであったがドラフト1位は中央大学の三塁手・佐野が確定しており、当初はドラフト外での入団予定だった。
しかし他チームが掛布をねらっているとの「うわさ」が飛び交い、急遽6位指名に繰り上げる事となった。
この6位指名の高校生が1位指名の佐野にレギュラー争いで勝ち、よもやミスタータイガースと呼ばれる事になるとは、誰も予想していなかった。
74年ドラフトでのスターは高校四天王・土屋(銚子商)永川(横浜)定岡(鹿実)工藤(土浦日大)であった。
この中で、工藤だけがドラフト2位で他は1位であった。
「自分だけが2位」とすねる工藤に対してタイガースは1位指名と同等評価の条件を与えたと言われている。新聞で報道された工藤の契約金の額が、1位指名の社会人投手古賀(日本石油)より大きかったため、古賀との指名交渉は決裂する。
実際は古賀の方が提示額は高かったそうでが、これほどに混乱するのであれば工藤1位でもよかったのではないかと、ファンにそう思わせるような結果となった。
江川卓 高校、大学と意中球団のジャイアンツから指名されなかったが為にプロ入りを拒否しつづけていた怪物投手。
78年「空白の一日」事件で巨人と契約するが、当然の事ながら無効とされた。
巨人がボイコットしたドラフト会議当日、巨人の横暴に怒った編成陣は小津球団社長の許可を得て急遽方針を変更し、江川指名を決意。南海・ロッテ・近鉄・阪神の4球団の抽選の末に、岡崎代表が当たりくじを引いた。
その後トレードにより小林を獲得した話はあまりに有名。
悪い江川のようにわがままを押し通す事=えがわる と言う。
79年ドラフトでは投手力が弱く野手層の厚いタイガースは投手を指名するとの予想が大方であった。
直前予想では阪神が浪商高校のエース牛島和彦、広島が早稲田の三塁手岡田彰布であった。岡田は赤ヘルをかぶる姿を想像していたとさえ言われている。ところがふたを開ければ岡田彰布を阪神が指名、黄金の手を持つ岡崎代表は病床で欠席だったが河崎取締役の手により、見事当たりくじを引き寄せた。掛布という名三塁手がおり、投手力が弱いこの時期の岡田指名は実に意外で批判もあったのだ。
その場だけの人気取りかとも思われたが、ドラフト外で社会人ナンバーワンと言われていた新日鉄光の大町投手を獲得したのだから、あらかじめ計算されていた見事な戦術であったと言える。プロ拒否を繰り返していた大町を獲得するに当たっては、かなりの好条件を提示したと言われている。
81年、打力に比べて投手力の弱いタイガースは電電九州のエース・右田の指名に乗り出す。しかし抽選で大洋にさらわれてしまい、はずれ1位は源五郎丸洋。まったく無名の高校生で、中継を見るものすべてが耳を疑った。
「ゲンゴロー」??? だが、私は入団直後の彼の投球を見た、非常にいい球を投げていて1位指名も納得であった。結局1軍出場は出来なかったが、悪い投手ではなかった事は理解しているつもりだ。ただ、キャンプ直後に怪我をした。あれさえなければね。
源五郎丸を育成できなかった事で、しばらく若手投手の補強が滞っていたツケがまわり、「タイガースの補強は投手」というアキレス腱に束縛されながら、打撃陣が徐々に低迷して苦しむ事になる。
2位には明治大学の平田を獲得したが、明大・島岡監督から「おまえの所にはショートに真弓がいるから、平田はやらん」と断られたそうだ。島岡監督には真弓を外野に転向させてでも欲しいと説得したそうな。85年に真弓はライトにコンバートとなった。真弓のコンバート構想を描いていた安藤の先見の目、平田を真弓以上と判断したスカウトの目は正しかった。
82年、タイガースは捕手が欲しかった。地元大阪出身の法政大学・木戸は、どうしても欲しい選手だった。木戸には広島も触手を伸ばしていた。
タイガースは投手が欲しいとマスコミに情報を漏洩した。これによって阪神・木戸の指名は2位以下と読んだ他球団は木戸を2位候補に下げ、まんまと阪神が抽選なしで木戸を獲得したのであった。この時は投手の補強は確かに必要であった。結局2位以下を予定外の高校生指名に切り替えるリスクがあったと言う。それでも木戸が欲しかったのだ。小津球団社長は「10年に一度の捕手」と評価した。投手が取れなかった穴埋めに、野村収を大洋からトレードで獲得したのだ。
83年のドラフトはタイガース史上に残る採って採られてのドラマだった。
前評判では田丸スカウトがしっかり脇を固めていた池田親興が1位指名という予想であったが、ふたを開ければ1位中西・2位池田と即戦力投手の2人取りに成功した。しかし、問題は3位であった。地元出身であるという事で3位で獲得を予定していた池山をヤクルト2位で奪われ、3位候補がいなくなったのだ。
ドラフト会議のその席で、安藤監督は「巨人以外は絶対拒否」と宣言していた仲田幸司の3位指名を決行。ゴッドハンド岡崎代表が見事にクジを引き当てた事で、池山獲得失敗のミスを帳消しにした。巨人担当者が怒りの表情で睨み付けていたそうだが、安藤監督のアンチ巨人ぶりが発揮された一面であった。
84年ドラフトでは投手と内野手の補強を優先に進められた。特に前年、池山を取り損ねたので控えの内野手は欲しかったのだ。1位では嶋田章弘を広島と競合の末獲得したタイガースは、予定通り2位で新日鉄大分の内野手・日野を指名した。日野の指名は大洋と競合したため、2位では左腕の佐藤を繰り上げ指名し、3位では当初予定していなかった日本大学の内野手・和田を指名する事とした。和田は東都大学リーグで首位打者を獲得していたものの当時の内野陣と比較して非力であり、期待されずの入団であった。
しかし、わずか142試合出場に終わった日野に対して、和田は1700を越える試合に出場し3割近い生涯打率を記録してタイガースの生抜き選手初の1億円プレーヤーとなる程の活躍を見せた。
日野をはずした事で大きな補強を出来たのであった。
脅威の1位指名5連敗(1不戦勝を挟む)という不名誉な記録がある。清原(遠山)近藤(猪俣)川島(野田)野茂(葛西)小池(湯舟)、はずれ1位も悪くない顔ぶれだが、あまりにも連敗が長かった。阪神が逆指名ドラフト賛成の立場に回るのは、この連敗による影響が少なくない。
ゴッドハンド岡崎代表がいれば....そう思えるのは当然の事だ。
清原の前年まで、計画的な補強を行ってきたタイガースが大きく補強計画がずれた行くのだった。
関西学院大学の田口壮一、ショート和田の肩が悪くなりセカンドへの転向が必須だったチームにどうしても必要な戦力だった。
しかし、タイガースと関学の仲はよくなかった。田口周辺(関学監督など)の意見は阪神を拒否し、関学OBであった谷村スカウトのオリックスに入るべしという物であった。田口が書いたとされる「阪神に入りたくない理由書」が飛び交うなど、不穏な雰囲気の中、オリックス入団が決まった。阪神は1位に萩原誠を繰り上げ、2位指名で日本石油の久慈を指名したのだが、後々までショートの打力不足に泣かされる事となるのであった。
後にふたを開けてみれば、田口の拒否はすべて学校側が仕組んだ事であったのだ。
92年ドラフト、星陵高校の主砲・ゴジラ松井秀喜は大ファンである阪神入りを熱望していた。
松井には4球団の指名が集中した。くじ引きでは阪神は3番目、巨人が4番目であった。
阪神中村監督がくじを引き、最後に残ったくじを長嶋監督が引いたところ、あたりは長嶋監督の最後のくじであった。何と中村監督は当たりくじを長嶋に譲ったようなものである。
その後、10年以上4番打者不在に苦しむタイガースでは、永遠に語り継がれるほどの大失態であった。後に、「中村は餓鬼の頃は長嶋のファンだからな」とまで言われたものだ
最下位球団はつらい物だ。
97年、タイガースは4番を打てる好打者として慶応大の高橋由伸外野手の獲得を狙うもヤクルト有力との情報に撤退、ふたを開ければ巨人を逆指名しての入団となった。タイガースはやむなく高校生捕手・中谷の指名に切り替えた。
98年、自称阪神ファンの大体大・上原、即戦力遊撃手の近大・二岡の関西の大学生二人の逆指名獲得に挑戦する。しかし上原はメジャー志望を打ち出したためタイガースは撤退、二岡の1位指名に絞る。結局、二岡は巨人を逆指名したが、さらに上原までも「巨人は日本のメジャー」と言って巨人入団。見事にだまされた。3位指名予定の藤川を1位に繰り上げてのドラフトとなった。
99年、2位指名は即戦力の左腕として東芝の高橋尚成を予定、逆指名を目指すものの、またしても巨人逆指名を宣言したため、立命館大学・田中総司に切り替えたがダイエー入りが決定。結局、日本大学の左腕・吉野に切り替えた。
00年、1・2位には立命館大学の山田・平本 両右腕の獲得を目指すが、共に阪神を拒否、何とか1位に藤田太陽を確保したものの2位には3位指名予定だったプリンス・伊達を繰り上げ指名する事となった。
02年、日南学園の寺原投手を1位指名候補に確定するも寺原側からの拒否。しかし早期撤退を決意した事でトヨタ自動車の安藤に切り替える事ができた。
最下位が続く中、96年の今岡以降は入団拒否の連続であったが、やはりこれはチームが弱かったためであろう。そのような中でも、切替え指名が徐々にうまくなってきたように思われるのは贔屓目だろうか?
制定2002年9月