心に残る高卒左打ち選手達 掛布二世伝説

掛布雅之の素晴らしい打撃にあこがれた私達は、ドラフト下位指名選手の高卒ルーキーは全員、金の卵だと信じていました。そして二軍の練習を視察に行くようになった。八木裕や萩原誠など、サードを守る長距離砲はみんな「掛布二世」と呼ばれたのですが、私から言えば亜流です。私が勝手に「掛布二世」と決めて心の底から応援していた高卒左打ち選手を特集します。


本家初代 掛布雅之 31

掛布は2年生の時に甲子園に出場したものの、当時の川西スカウト・櫟スカウトを始めとする全球団のスカウトの頭の中にまったく残らず、ノーマークの存在だった。元タイガーストレーナー篠田仁氏を伝手に安藤統男に依頼してタイガースの入団テストを受けたのだ。高卒のテスト生でありながら、高卒1年目から1軍に定着。3年目で21歳にしてベストナインを獲得し、球界を代表する選手の仲間入りをした。田淵幸一の次代の4番打者となって、ここ一番での打撃でミスタータイガースと呼ばれた。練習・練習でテスト生から這い上がった所に掛布である真の意味があった。
掛布は本当の若トラだった。掛布以降、新人選手を若トラと呼ぶようになったが、掛布がすでに不動のレギュラーとなった22歳や24歳での入団では、若トラとは呼べないとさえ思うのだ。

なぜ左にこだわるのか

私は右は大卒・左は高卒のイメージが強いのです。私のタイガースの場合、右打者は法政大学の田淵・中央大学の佐野・早稲田大学の中村勝と岡田なのです。対して左は遠井・池田純・藤田平・掛布なのです。ライバル巨人はONでも立教大の長島が右、早実の王が左で、松井はやっぱり高卒だと思うのです。じゃあ、藤本克巳や濱中はどうだといわれます。中村紀や清原はどうなのかと言われます。藤井栄治は左でも大学卒です。でも私には投手も左は江夏なのです。
調査すると、実際にはそう極端ではないのですが、高卒の方が若干左の比率が高いようです。おそらく、学歴がどうのこうのではなくて、「どうせ育成で獲るなら左を」とか「左は早めに獲りたい」という気持ちがある為なのでしょうね。
とにかく、私は高卒は左の方がよいと信じていました。高卒のイメージは掛布と江夏のせいなんでしょうね。だから私の掛布二世は右ではだめなのです。

掛布以降の高卒左打(左系スイッチ含む)

名前 入団年 順位 高校 守備 試合出場 掛布っぽさ
掛布雅之 1974 6位 習志野 1625 100
松下立美 1975 6位 津商 投内 14 10
西浦丈夫 1976 平安 なし 10
小倉泰男 1977 関西大倉 捕外 なし 10
吉竹春樹 1979 九州産 投内 1128 80
吉川弘幸 1984 5位 大成 15 20
中谷忠己 1984 村野工 236 60
丸山武彦 1985 北陽 なし 10
高井一 1988 2位 横浜 78 40
亀山努 1988 鹿屋中央 内外 377 40
鮎川義文 1989 6位 星城 224 30
星野修 1989 福岡 738 70
吉田浩 1990 6位 高岡一 258 20
田中秀太 1995 3位 熊本工 624 10
松下圭太 2003 13順 三瓶 なし 20
高濱卓也 2008 高1位 横浜 なし↑ 30

直系二代目 吉竹春樹 53 → 8

九州産業高校からドラフト外で入団してきた吉竹が初代「掛布二世」だ。掛布の5年後輩にあたる79年入団だ。2年生で投手として甲子園に出場しているものの、目立たずにドラフト外での入団となった。入団後も左投手なのか、野手なのか一本化できない指導の下、打撃投手として汗を流すなど地味だった。そのまま2〜3年で消えてもおかしくない選手だったが2年目の安芸キャンプでOB松木謙治郎氏に打撃を認められた事から一躍脚光を浴びて、期待の星「掛布二世」として羽ばたくきっかけとなった。53番という大きな背番号をつけて一軍で活躍した81年〜83年、合計で200試合以上に出場した。タイガースでは外国人以外で50番台をつけて活躍する選手がいなかったので、あまりにも新鮮であった。後に吉竹が苦しむのも掛布二世という看板と、猛虎打線のイメージのすごさだった。
87年に田尾安志との交換トレードで掛布より先にタイガースを去った。タイガースの87年以降の低迷は、次世代を背負う人材だった吉竹の離脱によるものが大きい。レギュラーを獲ってオールスターに出場したのは移籍後の西武時代だった。多くの掛布を目指した左打者の中でただ一人、1000試合以上に出場しているのだ。

直系三代目 中谷忠己 65 → 48 57 

掛布にあこがれて入団テストを受け、ドラフト外で入団してきた無名の外野手。無名な選手だけに新聞などでは目立つように「掛布二世」として紹介された。吉竹の5年後輩の84年入団だ。高校通算50盗塁とのふれこみだったので非力な駿足系の選手かと思えば、入団当時から意外とパンチ力があって未完成ながら素晴らしい原石のように見えた。吉田義男監督の土台作りの方針で3年間は一軍に昇格する事なくじっくり鍛えられ、4年目でウエスタンリーグ4位の打撃成績を残すまでに成長した。さあ、これからという5年目に、監督が交代した不運もあってかベテラン久保との交換トレードで近鉄に放出された。近鉄で200試合近くに出場し、外野の控えとして地味ながら活躍した事と、特徴ある太い「まゆげ」でコアなファンは少なくない。95年、再びタイガースの入団テストを受けて復帰した。タイガース入団テストを2度も受験して2度合格したタイガース愛にあふれる選手は、中谷忠己以外に存在しない。

直系四代目 星野修 68 → 12

埼玉県の福岡高校からドラフト外で入団した。高校時代は投手だったようだがまったくの無名。89年入団で中谷忠己の5年後輩にあたる。担当した今成スカウトが「掛布の入れ替わりと思って下さい」というセリフで紹介した。6位に鮎川義文、同じドラフト外には竹峰丈太郎というテスト入団の内野手もいたのだが、掛布っぽさでは星野の方が確かに光っていた。入団した頃は内野の守備は下手だし、打撃も非力に見え二軍の試合にもなかなか出れなかったた。しかし2年目以降に星野は急成長した。3年目で2軍のレギュラーを奪い取ると、5年目で一軍昇格。独特のオープンスタンスだったが6年目に打撃フォームを改造して確実性も増した。スイングスピードではチーム1・2を争う程に成長し、1・2塁間を破る鋭い打球が特徴となった。しかし、チームが低迷しているため1軍内野のポジションを奪うにはタイミングが悪すぎた。チームが打てる遊撃手を欲しがっていたために、どうしても守備に負担がある遊撃手として育成したかったのだ。早期にセカンド・サードでチャンスが与えられていれば星野の素質からレギュラーを取れたと思う。
5年おきに入団していた掛布の直系系列は、4代目の星野修を最後に途絶えている。

亜流 高井一 37 → 100

88年に横浜高校からドラフト2位で注目されながら入団した内野手。新聞では「掛布の再来」と書かれた。名門横浜高校の出身で、入団時にはある程度完成された選手でした。左打席からの鋭いライナーが魅力的で、1年目からウエスタンでレギュラーを獲得し、順調に一軍に昇格した。プレースタイルは好打者タイプで掛布路線なのだが、名門校から高い順位での入団という事と、スイッチヒッターを目指した事から掛布2世とはいいがたい部分もある。顔も掛布とは違う路線で、女性ファンが多かった。4年目に骨折、そしてヘルニアに悩まされて大成できなかった。
私は高井も好きだったのですが、掛布路線ではない亜流です。

掛布分流初代亀山 亀山努 67 → 00

鹿屋中央高校からドラフト外で入団。渡辺省三スカウトが発掘したのでテスト生ではない。大阪生まれだが子供時代に奄美大島に転居したため、出身地は鹿児島県となっている。亀山も掛布にあこがれていた阪神ファンの少年だった。野球に関しては双子の弟・亀山忍の方が有名だったようだが、忍は渡辺スカウトが視察に来た時に故障していたのだ。入団した頃は太っていて体重オーバーという印象、これはすぐ消えると思ったのに、打撃ケージに入るとミートがうまくて「意外とやる」と思わせた。2年目から1軍の試合にも出たが、わざと一軍にあげず、90年・91年と石井晶二軍監督の下でウエスタンリーグ首位打者を獲得し、石井晶一軍チーフコーチ昇格の手土産として一軍昇格。その後の活躍と人気は92年の躍進の原動力としてあまりにも有名。入団時は三塁手だったのだが、同期の高井が「掛布二世」を名乗ったため「掛布二世」ではなかった。ガッツと駿足を売りにウエスタンの盗塁王を獲得した頃から、はっきりと掛布とは異なる初代亀山となったのだ。先輩では松下立三・吉川弘幸らが似たような系列の駿足出塁率路線だろうが、それまで亀山以前にメジャーな選手がいなかったのだ。存在感は掛布とは異なるが、彼は掛布路線の選手です。

掛布分流初代アゴ 吉田浩 64 → 42 → 0

高岡一高からドラフト6位で入団。同期の新庄の方が最初の記者会見から冗談をまじえて注目されていた分、非常に地味だった。入団時の浩はパワーあるという触れ込みからは想像も出来ないほど非力であり、正直、早々に消えるかもしれないという雰囲気もあった。だが13年もの現役生活を送ったのは彼が熱心だったからだ。
コアな二軍ファンの中では極めて人気が高かった。その理由は第一に特徴あるアゴだ。浩のファンはまず外見から入る。選手名鑑等の顔写真を見ても、吉田浩選手よりアゴが大きい選手はタイガースには在籍していない。(球界には門倉投手など、素晴らしいアゴを持つ選手が他にもいるが) 浩のファンになればなる程、そのアゴの魅力に引き込まれていく。しかし、アゴだけでは本当の人気者にはなれない。浩の一番のよさは必死に練習に取り組む熱心さと、何歳になっても高校野球選手のようなガッツを見せるプレーだ。決して二軍のベテランの座にあぐらをかくことなく、ひたむきに日々プレーしたその姿は、いつまで経っても若き日の掛布であった。最後の掛布戦士でした。

伊予の大砲 松下圭太 69

掛布・吉竹・中谷・星野と、私が勝手に決めた掛布の直系は5年毎に入団していたのだが、89年の星野以降途絶えていた。2003年室戸キャンプにて気になる一人の高卒新人と出会った。それが松下圭太だ。入団前に新聞では「伊予の大砲」と取り上げられたが、ドラフト13順目という過去にない低い順位での指名でまったく注目されていないテスト入団だった。
フリー打撃ではとても大砲と言える内容ではなく、上半身と下半身はバラバラで未熟さばかりが目立つ。体も小さい。3月の教育リーグではレフトを守ってエラーした。伸びしろは感じたのですが、いかんせんチームの選手層が厚すぎました。

猿のような身のこなし 高濱卓也 36

伊予の大砲から5年。2008年に入団した高濱は1年目、まったく試合に出られず、陸上部のような練習しかしていなかった。
2008年秋になりようやく球を追う姿を見るようになった。体が柔らかく柔らかな身のこなしで猿のようにすばしっこい。高校生ドラフト1順目という高い順位は掛布二世と呼ぶにはやや不満だが、高い運動能力に今後期待せざるを得ない。


改訂 2010.3.1

げんまつWEBタイガース歴史研究室