雑学程度ですが、いくらか忘れないように書き記しておきます
阪神に多い姓、選手数が多い順に記録すると(06年1月現在)
渡辺12 中村10 佐藤9 山本8 伊藤7 吉田7 山田7 高橋7 西村6 鈴木5 辻5 田中6 前田5 藤本5 上田4
渡辺姓はチーム渡辺が作れるくらいだ。
エースに省三、捕手に長助、外野の主力打者博之、ショートに純志、
博敏、伸彦、邦彦、敬蔵、一夫、誠太郎、亮 なかなかの戦力でこれならチーム作れる。
中村は03年に2人増えて一気に二桁となり渡辺に近づいた。
ばかばかしいかもしれないが、ちなみに渡辺以外の名前でチームを作ると、
チーム中村 勝広内野兼監督の元、なんとなく楽しいメンバー 二軍の本塁打王
良二の打撃にかかる。
チーム佐藤 選手のほかに、監督代行として佐藤孝夫 投手コーチに佐藤義則を持つ。
チーム山本 和行−哲也のバッテリーもさることながら、晴三コーチが鍛えてしまうかも。
チーム吉田 優勝監督吉田義男の下、左腕豊彦に二人の捕手、内野に剛・外野に浩と守備の実力は高い。
少数だが 辻と東は捕手ばっかし....
うえだじろう 二郎 → 二朗 → 次郎 → 次朗
3回改名 読みは同じでわかりやすく わかりにくい。管理部長になり昔の名前に戻る。
伊藤弘利 → 伊藤宏光 → 伊藤文隆 2回改名
これだけ違う名前に変化したらまるで別人 確かに文隆になって人が変わったかも?
萩原誠 → 萩原誠斗 → 誠 2回
2回目は嫁さんの姓「服部」となったためだ。近鉄に移籍して萩原に戻す。
濱中治→濱中おさむ→濱中治 2回
元に戻したパターン
脈絡のない名前になる。
朝井茂治→朝井一義世 すごい変わり方だ。
「阪神は変わった名前ばっかり採る。」そんな事をよく言われていたが.......
確かに歴史の長さもあるだろうが多い。
難易度ランクA 釣、石風呂、石床、表、切通、櫟、桟原、白仁田
難易度ランクB 五月女、杣田、内司、源五郎丸、渡真利、南牟礼、御子柴
難易度ランクC 冷水、蘭定、交告、安仁屋、尻無浜
ここ数年、ドラフト指名は変わった名前、いません。 この路線はもう卒業したのかな?
タイガースにあって、その核として活躍した選手にのみ与えられる称号
初代 藤村富美男
二代 村山実
三代 田淵幸一
四代 掛布雅之
掛布は一時期3代目ミスタータイガースと呼ばれたことがあった
田淵幸一は現役時代はミスタータイガースと言われていたのだが、遺恨を残す退団劇でミスタータイガースから抹消されたような感じになっていた。
このため掛布を三代目とした時代があった。02年コーチ就任を機に再び田淵を3代目と見直すようになった。
準ミスタータイガース扱い
若林忠志 : 毎日に移籍した事が遺恨となるのだが、一時代を築いた投手だ。
江夏豊 : この世代のタイガースファンは誰もが江夏のファン。
岡田彰布 : 村山引退直前にキャッチボールをした事でバトンは渡されたが、タイトルが取れなかったのでミスターになれなかった。
新庄剛志は一時代の阪神を象徴する選手であった。
しかし、その成績は歴代ミスタータイガースともかけ離れている。
素質はすばらしいが、努力する方向が何処か違うのだ。
彼を期待と皮肉を込めて成長過程の万年皇子 「虎のプリンス」と呼んだ。
藤本修司 南海時代の呉キャンプ中、猫に餌をあげようとして手をかまれた。
この怪我でしばらくの間、投球できなかった事から「にゃんこ」と呼ばれるようになった。
最初はバカにしたようなあだ名だったが、次第に愛着が深まり、誰もが親しみをこめて「にゃんこ」と呼ぶようになったのは、彼の人柄の良さによる。
鳴尾浜球場で笑顔でカゴを片付ける姿を見るたび、「今日もにゃんこに会えてよかった」と思うようになる。
米名 マイケル=フィリップス=ピーターソン 米国人の父を持ち「マイク」と呼ばれた。
両親の離婚後、義父の姓から 仲田幸司。
真弓明信の「ジョー」 西鉄時代にアメリカに行ったときに「明日のジョー」からつけたニックネーム。これは単なるあだ名。自分でつけたといううわさもあるが、真相はクラウン代表青木一三氏が付けた模様。
新庄剛志が若い頃、自分もカッコいいニックネームをつけようと「ジョー」という呼び名を考え付いた。ベテラン記者に「それは真弓のあだ名だよ」と教えられたという。事実かは定かではないが。
掛布雅之が入団した1年目に金田監督がつけたあだ名が「モスラ」
東宝映画のモスラ(さなぎの怪獣)からとった。
理由は簡単、将来大物になるから..... すごい素質だったのでしょう。
天理高校時代から注目されていた福家雅明の速球のすばらしさ。
実はその素晴らしい球はブルペンか敗戦処理の時しか見られないのだ。勝ち試合ではフォームが小さくなり球速が出ない。皮肉たっぷりだったが的を得たあだ名だった。
実はミスター敗戦処理には2代目もいる(太田貴)のだが、初代ほど落差が激しくないので浸透しなかった。
同意語として、ミスター浜田球場というのもあった。
「虎バス決定 ランディ・バスが新外人に内定した」というのはまだましで、「阪神バス
獲得」などと、いかにも路線バスのように報道された。 そういうわけで球団は登録名を「バース」に変更した。のちのち、この「−」をいれた事がよかったと言われるようになる。
挙げ句の果てに、フィルダーも「−」があるからいいのだ とか 金子誠一や高井一も「一」があるから大砲になる と言われた。 もちろん 伸ばし棒と漢数字の一は違うようで、金子や高井はバースにはならなかった。
メイもメーイにしておけば、5月病で退団する事もなかったという漫才も聞いた。
天下茶屋のバースは山下のこと。
92年に活躍した亀山新庄は亀新コンビと呼ばれたのだが、メジャーになる前の亀山は鶴見と合わせて「鶴亀コンビ」と呼ばれた。
単なる語呂合わせで90年に亀山がウエスタンで首位打者を取った頃から大きく差が開き、コンビではなくなった。
四天王は 野田征稔、池田純一、江夏豊、和田徹 のこと。 藤本監督末期で70年代の第一次村山監督時代の基盤になる。
少年隊は 大野久、和田豊、中野佐資 88年第二次村山監督時代に育成した。
村山監督の若手育成方針は藤本監督の影響が大きかったのではないかな。
89年には 八木裕、金子誠一、横谷総一 で 第二少年隊を結成したが二番煎じに終わった。
01年に野村監督が「平成の少年隊」なるものを考案したが、イマイチで野村のマイブームに終わる。さらに「壮年隊」や「ワカボー」など色々考えたが、かなり苦しい物があった。やはり少年隊は村山監督。
リーダーはミスターアンダースロー小林繁、これに深沢恵雄・大町定夫を加えた3人だ。
前年、下手投げの上田が移籍したのだが、しっかりとアンダースロー路線は守られた。
いつのまにか 阪神は下手横手ばかりを集めるという風に風潮されるようになった。
85年優勝世代の誇る漫才トリオ N中西、H平田、K木戸。
マイクを握らせると、他の世代の追従を許さないほどの話術をほこる。
退団後は吉本興業に入社すると言われていたが、予想に反して全員が立派なコーチに成長された。
2000年代では坪井・カツノリの「同級生コンビ」がギャグを飛ばしているが、NHKトリオの比ではない。
03年に木戸二軍監督がつけたルーキー3投手 S杉山、S三東、K久保田
平和台球場での太平洋時代、東田正義(トン)と竹之内雅史(タケ)の愛称。
よく打つのだが、どちらも個性的だったということで印象的。二人とも阪神に来たが、残念ながら在籍時期が合わず、コンビ再結成とはならなかった。
やっぱりトンタケはピンクのユニフォームでないと。
2001年に野村監督がつけた数々のユニット名の中で唯一のヒット作。
赤星・平下・高波・沖原・藤本・松田・上坂の7人を指す。今一つ理解しがたいのは脚が速くない沖原が入っていて、それまでの駿足の代名詞・田中秀太が入っていなかった事。
翌日、「秀太を忘れていた」との監督コメントが発表された。1号車の赤星はこの年見事に盗塁王に輝く。
中村勝広、川藤幸三、岡田彰布、平田勝男、木戸克彦、島田章弘、中西清起、仲田幸司、遠山昭二らが兄弟の契りを交わして酒を飲みにいく集まり。
川藤と中村は盟友で、中村監督時代に川藤をコーチにしたほど二人の関係は深い。この友情は兄弟会で培われた。兄弟会にはどちらかと言えば、ほっておくと何をしでかすかわからないようなやんちゃな若手選手が集まった。やんちゃな若者を一人前にしようと言う中村と川藤の心意気だった。
ジェフ・ウィリアムス 藤川球児 久保田智之のリリーフ三本柱のこと。
実際の05年の登板順はFJKの順番だった。 その後藤川がクローザーとなり KJFの順に変わった。
JFKにつなげる投手を 桟原・橋本健・江草でSHEと呼んだが、あまりうけなかった。
アニキと言えば金本である。
鍛えたその体は兄貴と呼ぶにふさわしい。
元々は広島カープ時代に新井が金本の事を兄貴と呼んでいたため、阪神ファンが金本をアニキと呼び始めた。
ちなみに新井の実弟である中日・新井良太も金本を兄貴としたい「自分には兄貴が2人もいる」と公言している。
その後、弟分だった新井もFAにて兄貴を追ってタイガースに入団した。
林威助(リン・ウェイツー)の事を阪神ファンはあえて「はやし・いすけ」と呼ぶ。2003年入団当時から鳴尾浜で呼ばれている。
中には、わざわざ「は・や・し」と平仮名で書いたボードを上げる女性ファンもいる。
2008年、読売・ヤクルト・楽天などにも「はやしくん」が存在するようであるが、オリジナルは林威助であることをここに明記しておく。
改訂1 06.1.1
改訂2 08.5.1