阪神ファン雑学

このページ、すべて私の記憶だけで書くので、気づいたことがあれば教えて下さい。


紙テープと紙吹雪

1970年代は球場に行く前に必ず新聞紙を切ってビニール袋いっぱい分の紙ふぶきを作り、文房具屋で紙テープを2本買って球場に出かけた。点が入るたびに紙吹雪を投げ、勝ち試合には紙テープを投げ込んだ。当時は野球場はもちろんの事、アイドル(例えばキャンディーズとか)のコンサートでも紙テープに紙吹雪は当たり前だった。
はっきり年度は覚えていないのだが小津球団社長だった頃だろうか。紙テープのボール紙でできた芯が頭に当たって怪我をするという事件が(甲子園ではないが)起きた。危険と言う事で社会問題となった。我々は、投げる前に芯を抜いてから投げるように対応したのだが、結局甲子園のみならず各地の球場で(大阪球場と西宮球場は甲子園と同時だった)紙テープを禁止する事となった。
紙吹雪については、私の友人が甲子園南西の住友金属工業社宅に住んでいたのだが、デーゲームや初春・秋口など風向きが逆の時(浜風でない時)に激しい紙吹雪公害にあったそうだ。ここの自治会にて紙吹雪の禁止を球団に要望したそうだ。
この70年代の2種の応援グッズは、球団からの通達という形で禁止になった。
84年頃はまだ紙テープを投げる者がいたが、試合を中断してグランドに物を投げないように指導していた。

シャープ産業とジェット風船

紙テープがなくなった80年代後半のある日の事、球場で長い風船を打ち上げるファンが現れ始めた。広島ファンが最初に始めたという説が通説だが、いっせいに打ち上げるわけではなく、地味にバラバラに上げていたので、誰が上げ始めたかはわからないと思う。
風船は最初、球団の公認販売ではなかった。それというのも、また風にのって近隣住宅のごみ公害となる可能性があったためだ。この悩みを解決したのがシャープ産業の小林さんだったという。阪神ファンでもある小林さんは球場で販売するために、球場向きのジェット風船の開発に取り組んだ。ゴミ公害を起こさないために高く飛びすぎず、しかし上げる人が満足するぐらいは飛ぶ事が大切だった。甲子園球場のスタンドで実験を重ねて、球場販売にふさわしい風船の開発に取り組んだのだった。こうして完成したジェット風船は、最初「つくし型」で先端だけが丸く胴体部分はストレートの物だった。このタイプのジェット風船は高さは理想どおりの高さまで上がったのだが、まっすぐに飛ばなかった。そういえば、当時のジェット風船はふくらませばわずかに反っていた。また、非常に割れやすかった。
ここからがさらに小林さんの努力の成果だ。さまざまな改良を重ねて完成したジェット風船は「三段ジェット風船」と呼ばれる物で、ダンゴのように三段の丸みを帯びている。このタイプは反りも少なく、飛んだ時の進直度が非常によいのだ。タイガースマークの入った球団公認のジェット風船は、膨らましている時にも割れにくいシャープ産業の三段ジェット風船である。
阪神ファンが上げているジェット風船は、単なる他球団の猿まねではない阪神ファンが育て上げた球場向きのジェット風船なのだ。

メガホンから応援バットへ

70年代のファンにはメガホンが必需品だった。毎日通う熱心な阪神ファンは球団公認のマークが入った円錐形の黄色いメガホンを購入した。今のようにトランペットもない応援だ。大きな声を出せば選手に届いた。メガホンを持たない者も、紙コップの底を抜いたり、新聞紙を丸めて自作のメガホンを作成し声援を送った。
これが今のようにバット形に変わり始めたのは85年頃の事。選手別ヒッティングマーチなるものが出来上がり、メガホンは声を出す為よりもたたきつける為に使用するように変わったのだ。当時の円錐形のメガホンは、たたき付けると簡単に割れた。たたく為の道具として、「バット型メガホン」が登場した。バット型は口に当てる部分がスリムなために、従来のメガホンより叫ぶための機能は劣るものの、機械的な強度が強く手拍子を打つのに強力な武器となった。私は熱心に球場に通った方だか、3試合で壊れていたメガホンがバットタイプならば10試合は持つようになったのだ。90年頃には通常のメガホンはほとんど姿を消し、バット型のみが売れるようになった。同時に「バット2本持ち」が主流となった。2本持ちになると更に力強く叩くので、またメガホンがよく割れるようになった。さらなる強度の向上が必要だったためと思われるが、樹脂の厚みを0.2mm程度厚くしてデザインも奇麗なものが出現、値段は100円高くなった。ただ1年60試合観戦に行くと、この100円の差は体で分かる程大きかった。
92年頃には白黒の2つのパーツを組み合わせた「Vメガホン」が登場したが、強度に欠けるため主流にはならなかった。このタイプは子供向にサイズを小さくしたモデルへと移行していった。
97年頃からはバット型メガホンではなく、「応援バット」として売り出されるようになった。メガホンでないのでグリップ部の穴を廃止し、たたくための強度とたたいた時の音量を更に追求したモデルであり、2000年代の主流となっている。

トランペットと応援歌

70年代前半の応援は 笛・太鼓・メガホンが主流だった。
野球場に本格的にトランペットが入ったのは、確か赤ヘル広島カープの最盛期で山本浩二・ライトル・ギャレットの頃のカープ応援団以降ではなかったかと思うのだ。それまでは、集団でトランペットを吹くのではなく、時々バラバラに持ち込んだ人が吹いていたにすぎない。勝手に吹いたら応援団に注意されていた。
阪神ファンがトランペットでまとまった応援をしだしたのは70年代後半からだと思いますが、あいまいです。
私がそのように記憶しているのは、「GoGo掛布」を球場で歌った覚えがある事と、この頃から六甲おろしを歌い出した事からです。掛布と藤田平だけが特別な曲で、他の選手は一般のヒッティングマーチでした。
84年になり真弓の応援にミッキーマウスマーチ、平田の応援に後に岡田の応援歌となるコンバットマーチが使われ始めました。90年代以降、投手に使われているヒッティングマーチは捕手に使われていた覚えがあります。
85年の始めに バースが専用の曲を使い始め、掛布の曲が「ここまで飛ばせ〜」に変わったはず。そして岡田にコンバットマーチ、平田にも新曲が与えられました。弘田・北村・吉竹・長崎にはまだ曲がなかったと思います。
翌86年には先発全員の曲がそろったのじゃないかな。また選手別応援歌のCDも発売され始めました。
応援歌の使いまわし第一号は平田から岡田へ引き継いだコンバットマーチ、専用の曲では藤田平の曲を使った和田豊と思います。

この項についてyukioさんからお便りいただきました。なるほど、私は巨人戦ばかりに行っていたのかも知れませんわ。
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掛布選手の「ここまで飛ばせ〜」のHMと「若虎若虎掛布」のHMこれはテイチ クから発売されてる(今は廃盤ですが)阪神VS巨人野次合戦の中に収録されてるの ですが、S57年の時点で巨人戦の時のみGOGO掛布のさびをHMとしてそれ以外 のカードでは「ここまで飛ばせ〜」のメロディーで歌詞がありません。GOGO掛布 をHMとして使わなくなったのはS59年からと記憶しています。


げんまつWEBタイガース歴史研究室