猛虎 裏方伝説2 〜捕手編

ブルペン捕手の仕事 投手の練習に絶対必要な捕手 記録にある初めてのブルペン捕手 「壁」からの脱出
バッティング捕手専任 トレーニングコーチ


ブルペン捕手の仕事

04年現在 タイガースには3人のブルペン捕手がいる。
試合中のブルペンのために2人が1軍帯同し、西口捕手は鳴尾浜3軍担当で故障した投手のリハビリを担当する。

<ブルペン捕手の仕事>
  Pまわり、投手陣の練習補助(準備・片づけ含む)、試合中はブルペン勤務

キャンプでは現役捕手がキャッチングする事は当たり前だが、公式戦中となると限られた2時間程度の試合前の練習時間は現役選手は打撃練習等自分の練習時間を確保する必要がある。各球場には、だいたい2面のブルペンがあるので、投手練習に際して2名のブルペン捕手を必要とするわけだ。重点的に指導したい投手はブルペンコーチが捕球する場合も多々あるが、その場合は打席に入るなど補助的な業務も多い。
1軍選手が故障した場合に1軍登録を抹消されると、現在は3軍扱いになる。2軍にはブルペン捕手はいないため、若手捕手たちがブルペンで球を受ける(これは捕球練習でもある)。しかし、故障した一軍選手はレベルも違う。彼らの練習に協力するのが3軍リハビリ担当の西口だ。

投手の練習に絶対必要な捕手

戦前のタイガースでも、小川・田中と絶対的なレギュラーの捕手がおり、門前・土井垣など有望な育成中の捕手がいたにもかかわらず、必ず常時3〜4人の捕手(または捕手もできる野手)が在籍している。試合に出れるのは常時一人だが、投手がたくさんいて全員が練習する以上、必ず捕手は必要なのだ。
裏方がいなかった頃、若手捕手たちは、先輩投手に言われるまま練習相手で捕球を繰り返した。

記録にある初めてのブルペン捕手

48年入団の谷田比呂美捕手はブルペン捕手だったとの記録がある。
入団した当時は小林や後藤など ”捕手もできる”野手がいたものの、土井垣以外に正規の捕手がいなかった。インフレの為の人件費抑制、少数精鋭主義の影響だ。が、投手不足の中、次々と補強を行うと、彼らの練習相手がいない。ブルペン捕手として採用したわけではないのだが、ここで丁度谷田が入団したために、ブルペン捕手と言われるようになっていく。最初はブルペンの仕事が多かった谷田だが、後に打撃力が成長し、代打の切り札となった。後に国鉄に移籍して金田正一専用捕手となったのは、長いブルペン経験で積み上げられた捕球技術のおかげだ。
山本哲捕手や二人の辻捕手ら、レギュラーに育っていった若手捕手達はみんな、ブルペンで小山・村山・バッキーという一流投手陣の球を受けて捕手の技術を磨いた。うまく捕球できなければブルペンでの相手さえもさせてもらえなかったのだ。
ブルペン捕手とブルペンコーチの境目は難しいが、当サイトでは古川啓三コーチを最初の専任ブルペン捕手と考える。古川コーチはわずか3年で現役を引退し、藤本定義監督政権下でピッチングコーチとなった。当時ヘッドコーチ格だった青田昇氏の自伝で、「球を受けさせて投手の状態を報告させるためにコーチにした」と記録されている。6年間コーチをつとめて、以後谷本稔コーチがその職務を引き継いだ。

「壁」からの脱出

現代野球では選手10人に対して1人補強される。ブルペン捕手専任の裏方が定着する80年代以前は新人7人に対して1人の捕手を採用していた事は事実だ。
それだけ、試合に出ない捕手は多かったわけだが、当時は試合に出場しないでブルペンで球を受けるだけの捕手の事を一般に「壁」と蔑んだ。「壁」となって村山らエースの球をブルペンで受けていた捕手からメールをいただきました。そのメールでは「人生の中でタイガースの選手として野球をした熱い思い出をずっと持ちつづけている」と語られていました。「壁」は立派な仕事だった。

1970年、捕手は 辻・辻がいれば10年は安泰だったのに田淵を指名した捕手王国だ。その裏、68〜72年の5年間で入団した17人のドラフト外選手のうち 6人(3人に1人)が捕手だった。全員がそうだと言う訳ではないが、ドラフト外で入団した無名の捕手達の最初の第一歩は「壁」になる事だった。
そして、本当に壁になりきった捕手がいた。72年入団の加納捕手は試合出場はほとんどなく、入団直後からブルペンでの調整役を10年間引き受けた。本当の意味での初代ブルペン捕手だ。何よりも捕球がうまく、性格もいいので投手達が気持ち能く投げる事ができる相手だった。77年、吉田監督は彼をプロ野球の打席に立たせて唯一のヒットを打たせた。11年目からはブルペンコーチとして、より一段上の仕事をこなした。40歳を境にフロントに転身した。加納の仕事が「壁」という言葉を「バッティング捕手」「ブルペン捕手」という仕事の呼び名に変えたのだ。
加納の2年先輩に奥田修がいた。奥田は2年のタイガース生活の後、中日に移籍。中日のブルペン捕手・用具担当として長年にわたり働いた。奥田が中日のブルペンを支えた。

バッティング捕手専任

浜田球場ができた79年からは、ブルペンの仕事は一人では賄えなくなってきた。そこで2年目の西口捕手に白羽の矢が刺さった。ドラフト外入団の高卒だったので、年功序列の野球選手の中ではもっとも立場が低い。自分の練習をする暇もなく、一軍ブルペンで働いた。西口の現役生活は3年間だが、2〜3年目は一軍のブルペンの手伝いばかりしていてウエスタンリーグへの出場さえもほとんどさせてもらえなかった。
81年に自由契約を通告されたが、バッティング捕手として契約する事となった。選手枠60名ピッタリだったので、選手登録もされていない、初代専任ブルペン捕手が誕生した。それからすでに20余年、西口は今でもブルペンで働いている。
今の安芸のブルペンは捕手の顔は見えないが、顔を見なくても西口のミットの音は聞くだけでわかる。

トレーニングコーチ

加納がブルペンコーチに昇格した時、77年ドラフト2位指名の甲子園準優勝捕手・続木敏之に声がかかった。ドラフト上位選手の裏方転向はタイガースでは初めてのケースだった。
続木はブルペンコーチに昇進した後、トレーニングコーチとして働いている。中途半端に昔を知っているファンは「ブルペン捕手がトレーニングコーチでは鍛えられない」と批判するものだが、続木は勉強家だ。トレーニングの知識も豊富で、今や立派なトレーニングコーチとなった。

続く


げんまつWEBタイガース歴史研究室