「球界の紳士」
少年時代は景浦の大ファンだった関西生まれのスラッガー。
全大阪で活躍し、本人の意思で脂の乗り切った28歳にタイガースに入団。1年目は故障もしたがダイナマイト打線加わった事で更なる破壊力を生む。男前で都会的な雰囲気があった。松木謙治郎の著書では藤村との不仲説も流れたようであるが、藤村・別当は自伝でそれをきっぱり否定している。2年で毎日に移籍。
1920.8.23生
出身地 兵庫県西宮市 (大阪府生まれ)
出身校 甲陽中学 慶應義塾大学
ノンプロ 全大阪
外野手(ライト) 右投右打
甲陽中学ではエースで4番 脚を大きく上げて投げる速球派
37年春 38年春夏連続甲子園出場
40年 慶應大進学
42年春 慶應大にて六大学首位打者(.500) 応召し海軍へ
46年 春のリーグ戦で優勝 卒業後、家業の材木屋を継ぐ
47年 全大阪で都市対抗出場 エースで4番 準決勝敗退 自ら大阪タイガース入団を望んで入団
48年 大阪タイガース 背番号25 89試合出場 .328 13本 57打点 ベストナイン 東西対抗出場
49年 137試合出場 .322 39本 126打点 ベストナイン 東西対抗出場 オフに毎日に引き抜き移籍
50年〜57年 毎日オリオンズ
57年〜59年 毎日監督 山内一弘を育てる
60年 監督辞任後、渡米して大リーグを半年間視察する。
62年〜64年 近鉄監督 土井を育てる
67年〜72年 大洋監督 田代を育てる
73年 広島監督
77年〜79年 大洋監督
80年〜 太洋球団代表 常務取締役 スカウト技術部門担当役員
88年 殿堂入り
99年 4月16日心不全により逝去 12月 三重県尾鷲市に全身像が落成
実働10年 出場891試合 打数3191 安打965 本塁打155 打点549 盗塁186 打率.302
監督通算19年 采配2497試合 勝利1237 敗戦1156 引分104 勝率.517