櫟 信平    いちい・しんぺい

同志社大学は実力で合格し、トップを争うほどの秀才。大下弘との確執からセネターズより移籍する。
守備に難ありの鈍足選手だがその打撃センスから将来を期待させた。しかし、健康上早期に引退。金田監督時代にコーチに就任し、現役志願してキャンプで打撃練習をしたという。  


1925.6.22生
出身地  京都府京都市
出身校  京都三商 同志社高等商業 同志社大学
一塁手 左投左打

大学では3シーズン連続首位打者 
48年 タイガースが獲得を目指すが、すでに東急と契約していた。

49年 東急フライヤーズに入団 99試合8本.239 
50年 大下弘とトラブルを起こして大阪タイガースに移籍 1月24日に移籍入団

50年 大阪タイガース 背番号16 109試合 11本塁打 48打点 .248  7番1塁
51年 105試合 6本塁打 35打点 .239
52年 出場なし 胸部疾患発覚 東京で入院
53年 出場なし 引退


60年 打撃コーチ 背番号65 登録なし(翌年から登録)
61年 打撃コーチ
62年 打撃コーチ
63年 二軍打撃・守備コーチ   辞任

64年〜73年 スカウト転身  掛布雅之を発掘

74年 打撃コーチ 背番号72

75年〜76年 スカウト

銀座に靴店を構える

83年 近鉄スカウトに転身

08年 6月10日老衰のため死去

実動3年 出場313試合 打数850 安打206 本塁打25 打点125 盗塁10 打率.242


げんまつWEBタイガース歴史研究室