私は江川は好きでない。江川事件から巨人ファンを辞めて阪神ファンになった人も数多くいます。
ただまあ、好きでないにしろ記録にはとどめておかねばならないですから。
作新学院の江川といえば、ノーヒットノーラン高校通算12回という「怪物」投手だ。
少年時代の江川は高校で甲子園、大学で早慶戦、プロで巨人という夢を持っていた。
高校を選択した時は、小山高校・日大一などへの進学の道があったのだが、甲子園の次に早慶戦に出る夢があったために進学コースもある作新学院に入学したのだ。
高校卒業時に阪急からドラフト指名を受けたが、もちろん進学志望でありプロ入りする意思は全くなかった。
大学は早慶戦に出れるならば早稲田でも慶応でもよかったのだ。常に人生計画を描きながら生きてきた江川はここで人生最初のミスを犯す。関係者の甘い意見に従って慶応大学を受験し、受験に失敗したのだ。(早稲田の体育推薦なら江川の実力で合格していたはずだったが、ゲタをはかせるという甘い誘惑に載って慶応を受験した。)彼の周りには常に「関係者」なるものが存在し、いつも甘い誘いに乗ってしまうのが江川である。そして事件が起こるのだ。受験失敗後、「せめて六大学へ」と、法政大学に入学した。
大学受験に失敗して挫折した江川だったが、大学通算47勝の実績をあげる。
プロ野球入団時は大学の時ように挫折するのではなく、初志貫徹したいと心に決めていた。少年時代からの憧れであった巨人を志望し、だめでも巨人と対戦できる在京セ・リーグであるヤクルト・大洋ならば妥協する方針だった。彼自身は後に、大学卒業後の年だったなら在京球団・もしくはセ・リーグであれば入団していたかもしれないと語っている。
しかし、指名権を得たのは在京でもセ・リーグでもない福岡のクラウンライターライオンズだった。江川は「九州は遠すぎる」と言って入団を拒否した。東京にスチュワーデスの彼女がいた。
クラウンの球団代表は50年代に阪神タイガースで敏腕ぶりを発揮した青木一三だった。球界の策士・青木は、やみくもに入団の可能性がない江川を指名したわけではない。江川入団後に即巨人とトレードを行うという青写真を描いていた。青木は巨人・長嶋監督が大学生だった頃からの旧知の仲であり、江川−西本聖の交換トレードが成立するとの筋書きができていたのだ。
しかし、不人気球団のクラウン首脳陣は、せっかく指名できた江川の入団を希望し、入団のみをせっつく交渉を行ったために拒否されたのだ。
江川は拒否した背景には、彼のまわりに「関係者」がたくさんいた事も一因だった。
江川の周囲には黒い「関係者」がたくさんいた。彼らは江川の恩人であるため、江川も多くは語らないのだが。
その中の一人に作新学院の理事長であった船田衆議院議員(畑恵議員と政界失楽園を起こした船田元議員の祖父)がいた。巨人ファンでも江川ファンでもあった船田議員は次回のプロ入りまでに2年を要する社会人球団ではなく野球浪人の道を勧め、作新学院職員の身分を与える事にした。江川は作新学院で働くわけではなく、南カリフォルニア大学に野球留学する事となった。
「関係者」達による巨人入団へのストーリーは、この時にできあがっていた。
江川の関係者達と巨人軍首脳の間で、江川入団への作戦はすでに出来上がっていた。
ドラフトで指名した球団の選手への優先交渉権は1年間であるが、実際には翌年のドラフト会議の2日前までであった。
巨人軍はドラフト会議の前日は前年のドラフトに関係なく自由にドラフト外で交渉契約ができると主張し、江川と契約した。これを「空白の一日」という。巨人軍はドラフト前日に江川と入団契約を済ませて入団発表を行った。
実際にはドラフト会議前日は翌日のドラフト会議に備えるための日なので、当然の事ながら野球連盟及び世論は読売グループと江川に猛反発したのだった。意地になった読売は江川入団の正当性と唱え、翌日のドラフト会議をボイコットした。
江川自身は後々「まわりにまかせていたらこうなった」と語って自己弁護していたが、慶応大受験・渡米など事ある毎に常に黒い「関係者」達に載せられてきた江川自身の生き方の問題がすべての事件の温床であるだろうと思う。
翌日のドラフト会議を前に、アンチ巨人の筆頭格であった安藤統男コーチは岡崎球団代表のところへ、その岡崎球団代表は小津球団社長の下に走った。社長に「巨人の横暴は許せない、阪神は江川を指名したい」との意見を申し出るためだ。球団再建を託されて新入団した小津社長の考えも一致していた。
タイガースにどうしても必要な戦力は即戦力の投手・外野手だったので、入団の可能性のほとんどない江川を指名する事は単なる意地であり大きな賭けだった。
ドラフト会議当日、阪神以外にも南海・ロッテ・近鉄の3球団が意地の指名を行った。だが、指名はしたものの実際はどの球団も当たりくじを引いてしまわないかびびっていたという。指名をする事に意地を見せたかったのだが、あたりを引いた時の混乱も予想できた。当たりくじを引いたのはタイガース・岡崎代表だった。岡崎代表は体に震えが来たと言う。入団交渉は予想通り難航した。阪神入団を拒否する江川に、くだらない意地をはる巨人軍。もう後に引けるはずがない。
巨人ファンだった金子コミッショナーが「阪神入団後巨人へトレード」とするコミッショナー裁定を下した事で、ようやく巨人も袖を降ろす言い訳ができた。
後は江川の交換要員だ。最初に巨人から提示されたのは、クラウンの時に話をまとめかけていた西本聖だったが、阪神サイドが難色を示し「プラス野手1名なら」という要求で跳ね返した。巨人側は新人の江川に2名の放出を行う事に難色を示し、2年連続18勝の実績を残していたエース格の小林繁との交換で折り合いが付いた。決定はキャンプインの前日だった。小林はキャンプに向かうその脚で空港から球団事務所に向かった。
小林はその年22勝を上げ沢村賞を獲得した。巨人相手には負けなしだったことで、小津球団社長と阪神の英断は正解だったと評価された。
一方の江川は2ケ月の出場停止処分の末、6月に甲子園球場で阪神タイガースと初対決した。スタントンの本塁打1本に抑えられていたタイガースだったが、7回にラインバックが起死回生の逆転スリーランを叩き込み、江川にプロの恐ろしさを教えたのだった。(その後は幾度となくコテンパンにやられたが)
以後、江川にはダーティーなイメージがつきまとい、小林には悲劇のヒーローのイメージができた。