戦後の選手復員・補強状況の考察


戦後の選手復帰と背番号

1945年正月の時点で、以下の9人が揃っていた。
小林英一・中村徳次郎・富樫淳・金田正泰・高山泰夫・本堂保次・藤村冨美男・土井垣武・呉昌征

開幕までに揃った選手(4月とする)
御園生崇男・ 武智修・渡辺誠太郎・小俣秀夫・野崎泰一・長谷川善三

5月に復帰・入団
仁科栄三・池端忠夫

6月に復帰・入団
玉置玉一・塚本博睦・森下博・松本太

9月に復帰
宮崎剛・山口政信・若林忠志

いつだかよく解からない 川北逸三・乾国雄
これらをまとめると下の表のようになる。

背番号廃止前の1943年と比較すると背番号を変えた選手、変えなかった選手の比較が出来る。
不吉な背番号として欠番の4・13を除くと、基本的に4月の開幕の時点でそろっていた選手から、若い番号を着けていったように見れる。4と13は、やはり嫌なようです。

開幕時点で在籍していた選手は好きな背番号を着けたと思われる。ここには入団順・イロハ順等のルールは見受けられない。
藤村10、御園生15、武智16、土井垣19、本堂24は過去の背番号を継続している。呉も巨人時代から着けていた23を選んでいる。
渡辺は呉に23を取られたためか、または番号を変えたかったからか17に変更している。あくまで推測であるが、17は門前の背番号であり、門前を慕っての事かと推定した。
乾は2からサード伊賀上の1、金田は28から4番松尾五郎の7、高山は25から名外野手山口の8となった。しかし、9月に山口が復帰した事により高山の8は没収されて27を着ける事となる。
富樫が同じレフトの景浦の6を引き継いだのも目に付く。子供の頃から合宿所で遊んでいた富樫には、戦死した景浦への強い気持ちがあったのだろうか。
このように、新人ではない選手は(富樫も新人とは言い難い)思い入れがあって自分の背番号か好きな先輩の背番号を引き継いだのではないかな。おそらく、この頃に背番号に対するイメージはイロハで決めた1936年当時より深いものになっていたと思います。

小林は1944年の入団で、もともと背番号がない。新入団と同様に空き番を獲ったと考えればいいのだろう。とにかく開幕時点で在籍していた野崎までで11までの背番号は収まった。
5月入団の池端は次の空き番号12、仁科はもともと着けていた自分の番号26。
6月入団は玉置、川北、塚本、森下、松本の順に復帰して、若い順に番号を獲ったのだと想定します。塚本が23でなく22を獲ったのは偶然なのか、理由があるのか解からない。若林は復帰が遅れていたのだが、18を空けている事で若林の復帰を誰もが待ち望んでいたと思われます。
9月、早々に退団して空いた中村の背番号5を宮崎が着ける。
山口はこの表では省略したが、9月復帰後の直ぐには18を着け、若林に18を譲って8に変更。よって、高山の8は没収される。もとの背番号の8を着けずに18にしたのは、6歳年下の高山に遠慮したためか。それまで置いてあった18を山口が着けた、この頃には「仙台の若林はもう復帰しない」と思われていたのかもしれないと予想します。ところが突然、若林が復帰した。若林は監督ではないため30ではなく、入団した時の18を着けました。


げんまつWEBタイガース歴史研究室