安芸キャンプの始まりと歴史


高知県安芸市は1954年に8月、安芸町・赤野・伊尾木・井ノ口・川北・土居・畑山・東川の各村が合併して安芸市となり、55年に香美郡西川村舞川轟を吸収合併しました。農林水産業が主な産業です。(写真は海岸から見た安芸の町並み)
安芸市は59年赤字団体から再建されました。その頃は国鉄安佐線(現在の土佐くろしお鉄道、国鉄民営化の際に工事凍結となって完成は2002年)建設の目処がたった時期、市の活性化の為に何かしたいと考えていた。

高知商業の名監督・溝渕峯男氏は61年から安芸高校の野球部監督に就任した。安芸高校を強くするためにはレベルの高い野球を子供達に見せるのが一番よいと考え、プロ野球キャンプの誘致を思い立った。岩崎安芸市長にキャンプの誘致を打診したところ快諾を得た。青少年の為にも野球場を造ろうと考えた安芸市は、地域活性化にも効果があると見て溝渕監督にプロ側との交渉を頼んだ。溝渕監督は高知商業監督時代の教え子であった岩本章良をスカウトに来た藤本定義タイガース監督と懇意につきあっていた。最初、藤本監督は近鉄の根本氏を紹介したのだが、近鉄側と安芸市は破談になった。
そのような背景から、投手を中心に高知でキャンプを行っていたタイガースが誘致のターゲットとなった。62年の暮れ、非公式ながら打診が始まり、63年9月10日に岩崎健夫市長、山崎初男議長、中川一郎市長公室課長補佐らが大阪の阪神本社を訪問した。これが安芸側とタイガースの初接触だった。
タイガースの総務課長・奥井成一は3日後の9月13日に視察のため現地を訪問した。建設予定地は土佐電鉄安芸駅(写真は駅跡から安芸ドームを見る)西浜字ケイコヤという丘陵地、見た目は単なる山だったが北と西も山なので風が遮られると判断した奥井は球団に「環境はいい」と報告した。
6日後の9月19日、安芸市の岩崎市長、岡本正企画調査室長、中川課長らが大阪を訪問して「土地を1万坪ほど購入したから来年2月からキャンプを張ってもらえないか」と、キャンプ場誘致の話を正式に持ち込んだ。阪神側は「プロがやるんだから、練習するにふさわしい甲子園に似た球場を」との条件が出された。土地の造成と球場建設のために1年間の猶予を置く事になった。
64年の安芸市の歳出合計は5億1900万円、球場建設は市の予算上やさしいものではなかったが単独事業で行う事に決まった。苦しい財政事情の中、予算は総額1000万円に抑える事とした。コストを抑えるため、グランドの造成は地元出身のNHK記者・大坪豊一朗が自衛隊施設部に依頼し、部隊の滞在費のみで「訓練」として造成作業を請け負ってもらった。山を削った土は安佐線の軌道の土盛りに使われた。安芸の三塁側スタンド上には写真の自衛隊によって造成した事を示す碑がある。
市民からは「阪神がいつまでおってくれるかわからんのに、何もない田舎町で儲かるのは米屋とタクシーだけ」との批判を受けた。岩崎市長は予算のやりくりに苦悩する中川に「中川君、もうけんでもえいやないか。安芸の神祭がもう一回増えたと思えば」との名言で励ました。市長は儲けるためではなく青少年に夢をもたせるために阪神の誘致を行ったのだ。64年、安芸高校が選抜甲子園に初出場する事が決まり、その思いは強まっていたのでしょう。
翌64年9月6日に安芸を訪問した奥井は、前年山だった球場予定地が自衛隊によって平地にされていたのを見て、安芸市側の熱意と市長の手腕を感じたという。
安芸キャンプは現実の物となった。安芸市にとって苦しかったのは予算面だったが、「球場使用料無料」という条件で阪神電鉄から1000万円を無利子で貸与される事になった。64年11月にタイガースと安芸市は「球団誘致補助金に関する約定書」「総合運動公園使用契約書」を取り交わした。借用した1000万円を安芸市は滞りなく5年間で返済したという。
安芸キャンプが現実となった65年、奥井は「パチンコ屋が二軒、それに映画館が二軒あるだけや」と安芸市の状況を事前に選手達に話したそうだ。選手から不満が出ると思い、あらかじめ予告したわけだが、選手達からは宿舎が古い事以外不満の声は上がらなかったそうだ。安芸の土佐赤牛や海の幸が非常に美味であった事や、安芸市民が協力的であった事によるだろう。特に面白いのは選手が安心して飲めるように阪神関係者は市内のどの店でもビール・酒を250円に統一した事だ。奥井は宿泊の面でも苦労したようだが、これについては別項にまとめます。そのような安芸市の姿勢が長年にわたるタイガースとの蜜月関係を築いたのでしょう。
2月1日に大阪を発って阪神ナインは安芸入りした。
右は阪神タイガース昭和のあゆみに出ていた「キャンプ地開き」の写真だ。
1月29日に100ミリぐらい降った雨でグランド状態は さんざん だったそうだ。2月2日付の新聞では「外野とかベンチ前が柔らかすぎる」とグランドコンディションについて不満の声が書かれている。そして阪神園芸が安芸に出張し、グランド整備の指導を行ったのだそうだ。

また、雨が降ると表層が流されて小石がたくさん露出し、トンボも使用できないほどだったと言う。村山実は「自分達が使うグランドなので石ひらいをした」と語っていた。
翌年のキャンプを前に建設現場の現場監督だった小松長次郎さんを岩崎市長がスカウトした。小松さんはラビットスクーターに取り付けた自作の耕運機でグランドを掘り起こした。グランドのすべての土をすべてふるいにかける事ですべての石を取り除き 最高のグランドを造りあげた。小松さんは「あずき大の小石ひとつでも見つけたら1万円やる」という名文句を残している。

ユニフォームとグラブとバットだけを持ってくれば、すぐキャンプができる
これが理想のタイガーデン。
開設当初はすべての用具を甲子園から運搬してきた安芸キャンプだったが、
5年間の球場建設費の返還を終えてからは、市営球場の設備は拡大されていった。
阪神側も資金協力を惜しまなかった。
例えば安芸ドームの建設には1億円を出資している。

85年〜94年に安芸市体育係長だった森田修一係長の時代、
安芸ドームなどタイガータウンの施設拡充が大きく進んだ。
わかる範囲で記すならば右のようになる。
(年度はすべて春季キャンプ実施年度)
タイガータウンの充実さ。
地方球場最高のグランドを持つメイン球場や安芸ドームなどの大型設備だけではなく、
充実した選手食堂や専用の風呂(移動式の五右衛門風呂のような物が2台)、
安芸ドームのウェイト設備などファンの目に見えない所が素晴らしいのだ。
タイガース専用の大型倉庫も設置してあり、キャンプ以外の時にはすべて倉庫に収納する。
一部のバッティングマシン等を除き、ネットや打撃ケージなどすべての備品を甲子園まで持ち帰る手間がない。
65年 安芸市営球場完成
66年 サブグランド
70年 外野に芝生
73年 雨天練習場設置
79年 サブグランド整備
82年 サブグランドに特設ブルペン
85年 ブルペン拡充、水洗トイレ
86年 冬芝に張り替え、ラバーフェンスの設置、
     バックスクリーン拡大、倉庫の設置
88年 ブルペン移設
89年 フィルダーネット設置
90年 ブルペン現在の位置に設置し、スタンド拡充
91年 エアドーム(50m四方)導入
92年 本部席改築
94年 ディアーネット設置
95年 安芸ドーム建設
98年 ライト外野(大豊用)ネット拡大
00年 ラッキーゾーン撤去に対応するため
     外野グランドを両翼4m拡大
03年 バックスクリーンに電光掲示板設置、球場前駅設置
04年 バックネット裏司令室完成

安芸キャンプの旅館
安芸市街


制定:2002年2月
改訂:2004年2月

げんまつWEBタイガース歴史研究室