大須球場跡


地下鉄鶴舞線の大須観音で下車。ここは片側4車線の国道19号沿い。西側に入ると大須観音がある。
最近の都心に似合わない古い下町と商店街が広がる。名古屋の中心だがこの一角だけは国道や大須通によって完全に外の世界から隔離されたような中に箱庭のように下町が広がる。
昭和戦前までは数多くの寺院と看板建築のモダンな建屋が並んでいた。市内電車の敷設や戦時中の道路拡張により街の様相が変わった。大須観音も含めて戦災ですべて焼け野原になった。従ってただっ広い道路から一本奥に入ると戦後すぐにに建てられた家屋が今でも多数並ぶ。1990年代までの難波や新世界のイメージ。
焼け野原の大須に1947年12月、大須球場が建設されました。それまで関東・関西中心だった職業野球の興行が大須球場が出来た事で名古屋でも盛んに行われるようになりました。
現在、名古屋スポーツセンターが大須球場の跡地にあります。有名なスケートリンクです。
戦後すぐの航空写真を見ると、この場所は焼け野原の中に森のようなものが写っています。おそらくこの地にあった大須二子山古墳だと思われます。東側には焼け野原になった西本願寺別院の土地があります。
1974年頃の名古屋スポーツセンターの古い航空写真をこちらに掲載する。
スポーツセンターだけでは野球場にしては敷地が狭すぎる。大須球場は古墳を取り壊して消失した西本願寺別院の敷地までの土地に建てられたようです。
大須球場は昭和史に残る暴動事件、大須事件の舞台になり、その直後に廃止撤去されました。
西本願寺名古屋別院。
戦災で消失した西別院は大須球場が出来た頃は焼け野原だったようです。大須球場解体後に土地が返還されて本堂を再建したようです。

中日球団は名古屋のチームでしたが後楽園でばかり主催試合を行っていた。
大須球場が完成した1948年に中日の主催試合をこの球場で数多く行うようになると、名古屋のファンが数多く押しかけ、中日スタジアムの建設に拍車をかけたのです。
名古屋の球史にはそういう意味で意義のあった球場だと思われます。


げんまつWEBタイガース歴史研究室