名古屋のタイガース遠征史


鳴海球場
1936年4月26日 オープン戦
タイガース1−9名古屋鉄道局

鳴海球場では公式戦を含めて26試合行っているが、その初日 セネタース戦の前の前座で実業団の名古屋鉄道局と対戦し、若林−小川のバッテリーを温存して大敗した試合が名古屋での初めての試合だ。

鳴海球場は1927年に愛知電鉄が設立、58年に閉鎖された後は自動車学校となった事は有名な話で、内野の伊吹スタンド(甲子園のアルプススタンドに対抗して作られた)が残っていて球場であることがよくわかる。
訪問記

八事山本球場
1922年に山本権三郎によって開設されたため八事山本球場と呼ばれる。

選抜高校野球大会発祥の地。
1936年7月15日からの公式戦、名古屋大会3試合のみに使用され、松木謙二郎の著書にはひどく悪い印象しか残っていないような記述がある。そのためかトーナメント8試合が終われば二度と使用されることはなかった。
八事山本球場

戦後は国鉄・JRの球場として使用されていたが1990年に売却され住宅となった。

名古屋市の中心にあった大須球場では1試合公式戦を行っています。

1948年10月16日
タイガース8−1中日  ○内山  ●清水  本塁打 別当10号11号 藤村富10号11号 玉置7号

名古屋スポーツセンターが跡地とされていますが、まず1974年の航空写真と1979年のものを比較するとスポーツセンターは建替えているようです。それはどうでもいいのですが、スポーツセンターの敷地だけじゃどう考えても球場が納まりきらない。実際には本願寺別院の土地までが大須球場だったようです。1949年撮影の米軍の航空写真にて不鮮明ながら敷地面積を確認することができます。ひし形の土地でレフトが特に狭そうです。この試合の本塁打は別当が2本、藤村が2本、玉置が1本。

この試合の翌日、1948年10月17日から中日球場の工事が着工となり、1ケ月半後に中日スタジアムが完成するとセリーグ球団は大須球場を使用しなくなりました。

中日スタジアム→ナゴヤ球場
1948年冬、中日球団念願の地元球場は名古屋紡績跡地に建てられた。最初は土盛と木造のスタンドだけで1ケ月半で完成。こけら落しの12月2日にオールスター東西対抗が行われて球場での1号ホームランを藤村富美男が放った。

初めての試合は 1949年5月29日
タイガース4−2中日  ○野崎泰  ●星田  本塁打 別当14号

ところが、このような木造スタンドだったことが災いし、1951年にタバコの不始末で炎上、死者3人、負傷者318人という大惨事を起こした。
再建されたスタンドが現在でも見られる鉄筋のもの。
経営していた中日スタジアムは73年に倒産し、名古屋財界のバックアップで株式会社ナゴヤ球場が営業権を譲渡されることから、ナゴヤ球場に名前が変わった。
中日−阪神戦の1軍公式戦を558試合行った。我々阪神ファンにとっては1973年に残り2試合で1勝すれば優勝という日に江夏が中日に負けた事で優勝を逃したという嫌な球場でもある。あげくの果てには球場東を走る新幹線から甲子園球場に向かう読売選手が見ていたとか、そういう気持ち悪い噂が出た試合でもあった。
1973年10月20日
タイガース2−4中日  ●江夏  ○星野仙

ナゴヤドーム
1997年から中日ドラゴンズの本拠地となったドーム球場

1997.5.7
タイガース1−2中日  ●川尻  ○前田  

以後、中日球団の本拠地として使用されている。
訪問記

航空写真
国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省  http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/
ナゴヤドームのみ国土地理院 愛知県名古屋市千種区 平成16(2004)年撮影

2008年2月 改訂

げんまつWEBタイガース歴史研究室