阪神パーク

2003年4月制定


甲子園球場のレフトスタンド南東に阪神パークがありました。

甲子園ボウルの緑の建物がゲートになっていました。阪神パークでは1980年ごろまでは様々なタイガース選手との催しがありました。閉園直前は住宅公園を併設した子供向きの遊園地となり、タイガース色の薄い施設になっていました。
不況とUSJのあおりを受けて、03年4月をもって廃園となりました。
歴史4のページに記載したように、設立当初の阪神パークは海側・現在の鳴尾浜公園の近辺にありました。枝川の川尻にあった余興場「甲子園娯楽場」が阪神パークの起源でした。43年に戦争のため閉鎖され、川西の航空機工場に土地を供出した。その後米軍の管理下におかれたため戦後は甲子園球場の横に移設されました。
2002年、阪神パーク内にあった「パクパク」という店です。
この店はタイガースショップでした。メガホンやハッピなど応援グッズが揃っていました。

阪神ファンは、阪神パークの駐車場を重宝した。野球の日は阪神パークの駐車場がファンに開放されていました。駐車場からは園内を歩いて球場まで行ったものです。
91年に幼児向けにリニューアルし、97年に住宅公園となりました。閉園前、幼稚園ぐらいの子供達のための遊具しかありませでした。
阪神パークの名物はデラックスプール・モノレール・レオポンの3つでしたね。
1950年、球場のすぐ隣の甲子園八番町に移転し、「おこさまは阪神パークがおすき」とのキャッチコピーで再スタートした阪神パーク。
戦前の阪神パークではは鯨の飼育をしていたそうですが、戦後の目玉として飼育をはじめたのがゾウでした。
1950年9月、やってきた2頭のゾウには「きくこ」「あきこ」と名前がつけられました。

写真はゾウの命名式です。右の「あきこ」の方に乗っている大柄な男性は、藤村富美男選手のようです。
藤村冨美男選手はこの他にもユニフォーム姿で象にまたがっている写真も残されています。大柄で豪快な人だから象が似合います。象は閉園までずっと、阪神パークで生きていて、千葉の方に引き取られたそうです。

左は吉田義男選手の写真です。吉田選手にはゾウよりもロバの方が似合っています。ピッタリの組み合わせでしょう。
右の写真はバッキー選手のサイン会の模様です。場所は児童会館、後の「ちびっこホール」です。
50〜70年代は、タイガース選手も集まる様々なイベントが阪神パークで繰り広げられました。

阪神パーク閉鎖を前に訪れた時、阪神パークの歴史展をやっていました。
歴史展の展示の最後にタイガース、吉田義男氏・田淵幸一氏・岡田彰布氏のサイン色紙が飾ってありました。
昔、田淵選手はジャンボプールのポスターに出ていました。田淵氏の子供も阪神パークで遊んだのでしょう。大阪生まれの岡田選手は幼少の頃、阪神パークにレオポンを見に来たそうです。
田淵氏の色紙の言葉を引用します。「子供達に楽しい思い出ありがとう 阪神タイガース 田淵幸一」

関連→レオポン


げんまつWEBタイガース歴史研究室