初代虎風荘と甲子園七番町

新しいファンの中には初代虎風荘を知らない人が増えてきました。甲子園球場の東隣の甲子園七番町に現存する初代虎風荘にスポットをあててみます。(取材時期は2002年〜2004年 徐々に追加しました)


甲子園球場の隣に位置する甲子園7番町は旧枝川の東岸で、湿地帯と農地だった場所です。球場と同時期に開発されました。碁盤目上に道路が整備されている事から、当時分譲地として整備された事がよくわかります。
甲子園球場と歴史を共にしたこの街では甲子園球場の新緑や紅葉の美しいツタで季節を感じる事が出来ます。写真は甲子園七番町の路地から撮影した紅葉の甲子園です。プロ野球シーズンではまず見られない、真っ赤に燃えた甲子園球場も美しいものです。
分譲時の区画整備がしっかりしているので、町全体の雰囲気はまだまだ変わりそうにはありませんし、古くからの店も健在です。初代虎風荘は甲子園七番町の一角にあります。
初代虎風荘は5階建て、外壁はかなりの劣化が進んでいました。L時型の重厚な建造物は遠くからでもその存在を確認できます。屋上では若き日の掛布雅之が毎晩素振りをしていたという伝説が残っています。
合宿所として使われていた頃は、正面玄関上の「HANSHIN TIGERS」の文字が刻まれ、屋上にタイガースの旗が掲げられていました。1962年に合宿所として落成し、1994年にタイガースが撤退しました。元々球団の所有物でなく、阪神電鉄から貸与されていました。合宿所として使用しなくなってからもになってからも某企業の甲子園寮として貸与されています。
70年代頃はこの寮の前で、タイガース子供会の手帳を片手にうろうろしていれば選手にサインをもらったり出来た。江夏選手は田淵選手を待って寮の前に座っている子供に、わざわざ田淵のサインをもらってきてあげたりしたそうです。試合のない日はのどかな雰囲気がありました。
初代虎風荘は甲子園球場に近くて便利な場所でしたが、問題点はいくらかありました。
高校野球の時期は甲子園球場を使えないため、選手達は遠くのグランドに練習に行きました。79年に落成した阪神浜田球場は尼崎の浜田にあったので、甲子園駅前からバスで練習に向かいました。
92年は人気の新庄選手を追いかけて、早朝から深夜まで異常な数のファンが押しかけました。甲子園球場ではパチョレック選手の車が群がったファンに接触事故を起こしてしまいました。タイガース人気が上がる中、虎風荘と球場の移動すらままならぬ状態になりました。新庄・亀山・山田ら人気選手をホテルにかくまった事もあります。94年に鳴尾浜にタイガーデンが設立されたのは、このような問題があったためだと思います。
2003年、甲子園球場では優勝争いが繰り広げられている間、旧虎風荘で工事が始まりました。「ついに解体か?」と思い、阪神電鉄に問い合わせた所、リフォームして貸ビルとして貸し出すとの事でした。
旧虎風荘はまだまだ、その姿を残すようです。写真は7月中旬、リフォーム工事中の姿です。丁度阪神の優勝が決まった9月に工事は完成し、新しい白い外壁の貸ビルに生まれ変わりました。
もちろん、形は昔のままの虎風荘です。選手達・ファン達の思い出深い虎風荘は、今後とも甲子園球場の横でその姿を残し、第二の人生を送ります。
2004年 完全にリフォームされた旧虎風荘は阪神グループの賃貸物件として貸し出されています。1階の玄関と食堂部分は店舗として改装されヤマハの楽器店みたいになっています。
外壁もすべて塗り替えられかなり美しくなりました。すっかり寮らしくはなくなりましたが、それでも手入れされずボロボロの状態で放置されているよりよっぽどマシかな。
改装されて次の任務、全うすることを祈ります。

選手の住んでいた町、甲子園7番町


制定:2002年
改訂:2003年
改訂:2004年

げんまつWEBタイガース歴史研究室