猛虎偉人伝5

まむしのスカウト 青木一三  その1


青木一三、元阪神タイガーススカウト、知れば知るほど青木のフロントマンとしての才能に驚くばかりだ。張り付くと離れないマムシのようなスカウティング、厚い人望と広い人脈を重ね持つ力強い人。野球人青木一三の人生を見つめ、タイガースのフロントマンとは何かを考えてみたい。

戦前〜市岡中学から予科練へ

青木一三は1929年に大阪市で生まれた。
1941年、戦時体制はいよいよ本格化し、国民すべてが戦時色に染まっていった。中等野球も例外ではなく、春の大会はこの年に中止。7月には文部省から全国規模の運動競技大会の中止が発令されたため、すでに地方予選が行われていた全国中等学校優勝野球大会も中止された。
1942年に野球の強豪である大阪市岡中学に入学して野球部に入ったものの、その時には、すでに朝日新聞社主催の甲子園大会はすでになくなっていたのだ。だが、文部省と大日本学徒体育振興会により、「大日本学徒体育振興大会」が開催されていた。この大会は朝日新聞の主催でないため幻の甲子園大会と呼ばれている。青木一三は3期先輩で後に早稲田大学から南海ホークスに入団した蔭山和夫と二遊間を組み活躍したが、平安中学の富樫淳にノーヒットノーランを達成されて敗れた。この大会を終えた後、市岡中学野球部は解散した。青木は学徒動員で飛行予科練習生、いわゆる予科練・海軍の少年兵育成に属した。幸いにも特攻隊などで出撃する事無く終戦を迎えた。

戦後 野球部再建へ

戦後、予科錬から復帰した青木一三は、早速一期下の実光繁朗らと野球部再建に向けて動き始めた。
追い討ちをかけるように、大阪市港区にあり海に近い市岡中学は1945年9月の枕崎台風にて水没していたために、旧校舎の野球部部室を探したがグラブなどは浸水して固くなってて使えないなど、野球道具の絶対量が不足していて練習もままならなかった。それでも青木は主将として野球部の復興に手がけていった。自主自律が学風の市岡中学では、やる気だけでやりたい事を誰にも邪魔されずにかなえる事ができた。グラウンドの石をひらい、荒れたグラウンドで痛んだ用具の補修を行う日々だった。

1946年2月、市岡中学復興後最初の試合として最大のライバルだった北野中学と西宮球場で試合を行った。市岡中学はユニフォームすらもなく、白シャツに体操ズボンの身なりで試合に臨んだ。すでに用具も体制も復興していた北野中学に大差で負けた。
1946年の夏の大会を前にして伊達正男(早大→全日本)、笠原和夫(早大→南海)、島田吉郎(早大→阪神)、蔭山和夫(早大→南海)ら、大物OBが次々と里帰りし、復活したチームの練習に立ち会った。この頃の青木は写真で一番左端、色黒で大人びていた。大会予選に青木は9番セカンドで出場、4番は後にタイガース入りした1年後輩でショートの楠本一夫(写真右端)だった。予選ではベストエイトに進出したが八尾中学に敗退した。

また同年8月25日から金沢市設運動場で開催された第四回中部近畿選抜中等野球大会(北国毎日新聞主催)には、大阪代表として日新商業と市岡中学が出場。この試合でも青木一三は9番セカンドで出場している。

関西大学から大阪タイガースへ

市岡中学を卒業した青木一三は関西大学球界の盟主・関西大学に進学した。
関西大学に入学した青木は迷わず野球部に入った。野球部監督は後に大阪タイガース初代二軍監督となる森田忠勇だった。森田は市岡中学出身の内野手として戦前に甲子園で活躍した名選手で、中学の後輩となる青木を大切にしていたが、選手としては見切りをつけて青木を1年生の間にマネージャーに転向させた。マネージャーになった青木は関西六大学連盟の学生委員として連盟を支える大活躍だった。

大阪タイガースは創立以来関西大学とは太いパイプがあった。設立からフロント業務を行っていた田中義一が関西大学野球部出身だったが、自分の部下として1948年に関西大学野球部で森田忠勇の3期後輩となる浅野秀夫を球団総務部に入社させ、球団マネージャーとして働かせた。
1950年、大阪タイガースに二軍を作る事になり、二軍監督に関大の森田監督が就任。ファームチームにもマネージャーが必要となるので、青木一三を関西大学在学中のままでタイガースに迎え入れた。タイガース青木一三のはじまりである。青木は親しい知人に「野球のマネージャーとして関大と同じような事をしているのに、向こうは授業料を払わないかんのに、こちらは月給をくれるんや。えらい違いや。」と笑っていたと言う。

タイガース二軍は森田の人脈による入団テストで1950年2月に体制が整った。二軍には青木の紹介で同志社大学在学のままで市岡の後輩の楠本一夫が加わったが、これが青木のスカウト第一号となるだろうか。

1951年まではまだ関西大学との二束のわらじであり、タイガーススカウトとしての目だった活躍はなかった。(たとえば山城高校の吉田義男をタイガースにスカウトするのではなく関西大学にスカウトしようとしていた)
タイガーススカウトとして本領を発揮するのは関西大学を離れた1952年以降の話となる。


その2に続く

げんまつWEBタイガース歴史研究室