猛虎偉人伝5

まむしのスカウト 青木一三  その2


青木マネージャーのスカウティング 1952年

1952年当時はまだスカウトという呼び方がありませんでした。青木一三のタイガースでの肩書きはマネージャーです。

52年の九州地区では長崎商業の太田正男投手が注目されていました。長崎商業の監督はタイガースOBの比留木監督なのでその伝手で訪問しました。
当時独身だった青木は身軽な事もあり1ケ月間九州に駐在しました。太田家には一日三回顔を出して親しくなったのですが、太田は契約解禁となる前に既に西鉄と契約していた事を知りました。解かった上で二重契約で契約しました。
結局、西鉄に気を使った田中代表の反対によって太田の二重契約はうまくいかなかったのですが、その代わりにと長崎商業から九州ナンバーワンの三塁手と言われていた河津憲一を獲得しました。さらに1ケ月間、様々な九州の高校生を見ていました。柳川商業の左腕権藤政利は、手が曲がっていた事から「だめだ」と判断しました。後藤次男の伝手で熊本工業に出向き、左腕投手に山部濡也を獲り、捕手の山本哲也も一緒に獲得しました。
しかし、権藤は手が曲がっているおかげでクセ球左腕としてプロで成功しました。山本がタイガースの正捕手に成長しましたが、必ずしもすべてのスカウティングが成功したわけではなかった。青木にとっては後のスカウト人生における貴重な経験となったようです。

青木一三は市岡中学の内野手で、投手よりも内野守備について極めて高い眼力を持っていました。
評判の田代照勝を観に岡山・南海高校に行きましたが、既に田代は大洋ホエールズと契約を済ませていました。岡山行きはまったくの無駄足となりましたが、すぐに帰っても仕方ないのでしばらくぼんやり練習を見ていた時、やけに動きのいい野手が目に付いた。興味を持って問い合わせてみれば「まだどこの球団とも契約していない」との事だった。それが、後に名サードとして吉田義男と二遊間を組んだ三宅秀史でした。
青木は、まだスカウトとしての日が浅く自信もなかったため一旦帰阪し、森田忠勇二軍監督を連れて再び南海高校に行きました。森田はその選手の能力の高さを一目で見抜き、即採用となりました。特大の掘り出し物でした。

その眼力の高さは、同じ53年入団組の吉田義男(立命館大学中退)で間違いないものと証明されています。
吉田義男がまだ山城高校に在学していた頃に、阪急が一度目をつけたが「背が低すぎる」と採用を見遅らさせたという(事実でないらしいが)伝説があります。技量は高かったものの小柄な事が、獲得する側も吉田自身の気持ちの上でもネックになっていたようです。実際、当時関西大学マネージャーも兼任していた青木一三もタイガースではなく関西大学に吉田を入団させようと動いていました。
立命館大学で吉田のプレーを見て守備では即プロで通用すると判断しました。また、実家の炭屋で軽々と炭の束を運ぶ吉田の姿を見てリストの強さを見抜き、鍛えれば2割8分は打てるだろうと確信したそうだ。
吉田本人はプロでやりたい気持ちはありましたが、自分が小柄であるためプロ入りに不安を持っていました。青木は本人と家族に岡田宗芳や長谷川善三らショートには小柄な選手が多かった事など十分な説明を行って不安を解消させました。小柄な吉田を見た松木監督の第一印象は「子供を連れてきたのか」と最悪だったようですが、一度守らせてみてそのプレーにうなづき、名手・白坂を二塁手に転向させました。

青木マネージャー 1955年

大津淳(関西大学→日本生命)は関大時代から主力打者として注目されていましたが、大学卒業と同時にプロ入りする事にはすごく不安を感じていました。青木は関大の先輩として親身になって相談にのり、「もしそれで自信がつけば、その時プロ入りすればよい」とノンプロで都市対抗を目指す事を勧めました。日本生命に入社した大津は鐘紡の補強選手として都市対抗に出場し、4番を打って大活躍しました。
青木は日本生命時代も よき相談相手 となって大津を支え続けました。二人の蜜月な関係に、他球団は付け入る隙がまったくありませんでした。
青木は大津を獲得するに当たり阪神電鉄社員として獲得し、タイガースへの出向させる形態で契約しました。プロへの不安を捨てさせる特別な配慮でした。親会社に入社させて出向させる例は以後多数見受けられますが、青木の考案による大津の件から定着しました。
55年12月に大津はタイガースと入団契約を締結しました。

55年、高校野球界を沸かせた新宮高校の前岡勤也は大争奪戦となりました。三重県の井崎家の生まれでしたが、新宮の前岡家の養子となっていました。当時はこのような養子縁組が多かったのです。
青木が動き出した時には、既に南海と読売が激しい争奪戦を繰り広げていました。前岡家には南海が入り込んでいて付け入る隙はありませんでした。出遅れた青木は前岡家ではなく、実家の井崎家に出入りして金を積み、前岡家との養子縁組を解消させてしまいました。
前岡家に出入りしていた南海は太刀打ちできなくなったので、最後に契約金を大幅に高騰させてから身を引きました。その結果800万円という当時では破格の契約金を払う事となりましたが、高校球界を沸かせた有望左腕を見事に獲得したのでした。井崎の契約金をめぐる騒動が、後に青木を退団へと追いやります。
予選が終わったら即交渉を始めようと、青木は和歌山県大会から井崎が出る試合をすべてマークする事にしました。しかし、ずっと和歌山にいたので暇な日もすべて球場に居て55年の和歌山県大会をすべて見ました。この大会を見て、南部高校の投手兼外野手として出場していた藤本勝巳と、那賀高校の速球派左腕土井豊を発掘して獲得しました。二人ともまったく無名でしたがプロ志望でした。契約金は80万円と井崎の10分の1で簡単に採用できたといいますが、藤本は後にタイガースの4番となりました。土井もリリーフで一軍登板しました。

同じ年の高校生で阪急に入団した米田哲也ですが、1月にタイガースに入団して練習に参加しました。これは阪急との二重契約によるもので、詳細は入団しなかった選手達の章に記載します。

タイガース 青木スカウトの功績

青木がタイガースに在籍していたのは1950年から1955年までのわずかな間にすぎなかった。その短い間に永久欠番の吉田義男を始め多数の名選手を数多く獲得しました。彼のスカウティングは多彩な戦術に目を奪われがちになりますが、何よりも選手を見る目がしっかりしている事が一番の武器でした。
この時期のタイガースは毎日事件により選手層が薄く、1人でも多くの選手が必要でした。スカウト組織も整備されたものでなかったため、争奪戦や二重契約、協定不履行が当たり前のように行われていました。かなり強引に思える部分もある青木のスカウティングでしたが、この時代だからこそそこまで強引さが必要でした。
吉田・藤本・三宅・山本ら、青木が獲得した選手らが中心となって1962年にタイガースは優勝しました。
もし、1980年代まで青木一三がタイガースの編成を担当していれば、あと5回は優勝していたかも知れません。巨人のV9などありえなかったはずです。

長嶋茂雄    藤村排斥事件で無かった事に

立教大学2年の長嶋茂雄は、練習や規律の厳しさに根をあげていました。退学してプロ入りしようか、との迷いがあったそうです。長嶋は藤村冨美男のファンでタイガースによい印象を持っていました。
前年55年に、同じ立教大学から横山国夫投手を中退させて獲得しています。長嶋も入団させる方向で動き出しまし、56年秋の段階では本人の内諾を得ていました。、家族への根回しも済ませ、いざ契約という段階に入っていました。
しかし同時に、阪神球団内で藤村排斥事件が起こりました。責任を取らされた青木は解雇となり、入団交渉は途中で取り止めになりました。


参考文献

  1. 青木一三著 「ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも」  ブックマン社
  2. 吉田義男著 「海を渡った牛若丸」 P45  ベースボールマガジン社
  3. 松木謙治郎著 「大阪タイガース球団史」 ベースボールマガジン社

その1

その3に続く

げんまつWEBタイガース歴史研究室