猛虎偉人伝2

満開の桜のように散った豪腕 西村一孔  その4


西村一孔は短命。太く細く咲いたと言われた。
1年目の酷使がたたって故障したと言われています。ここでプロでの成績を確認してみよう。

年度 登板 先発 完投 完了 投球回数 奪三振
55年 60 20 12 37 295.1 302
56年 23 104.1 89
57年 18.0 12
58年 12 25.2 16
59年 登板なし
60年 登板なし

2年目の56年は55年の3分の1の登板数に激減、前年の酷使の影響で右肩に痛みが走り4月22日から7月11日まで登板がない。夏になって試合に復帰したがすぐ盲腸炎にかかった。すぐ手術すればよかったが、優勝争いに不可欠な戦力だったため注射などで乗り切ったために拗らせてしまった。シーズンが終わってからようやく盲腸の手術をした。
前年の酷使により肩を痛めていたとは言え、夏以降の登板も奪三振も55年をわずかに下回るペースで、明らかに調子が落ちたわけではないように思える。したがって肩は56年の夏に一旦回復しかけていたのでしょう。ところが拗らせた盲腸炎が問題で、結局シーズンオフに2ケ月の入院生活を要した。

この影響で、57年は体が出来ていない状態で騙し騙し投げた事で、今度は本格的に肩を痛めた。5試合しか登板できなかった。
58年はほとんどシーズン後半でのリリーフ登板だった。



さて、タイガースの投手陣の中で酷使といえば戦前・戦後の若林忠志だが、登板の多い年(200イニングス越え)を羅列すると

年度 登板 先発 完投 完了 投球回数 奪三振
39年 48 30 25 16 330.0 99
40年 56 31 10 226.2 112
41年 42 23 21 17 321.2 87
42年 58 27 24 29 377.1 109
43年 52 39 39 13 415.2 99
44年 31 24 24 248.0 45
48年 48 33 26 14 326.1 78
49年 43 25 19 16 271.0 93

投球回数がとんでもなく、長年にわたりかなりの酷使だ。
社会人時代は剛球投手だった若林は37年に肩を壊してから、肩に負担をかけない技巧派の投球に方針転換していた。打たせて捕る事で球数は抑えられた。 そのためか、37年に一度肩を壊して以降、大きな故障は表には出ていない。
若林は別格である。


若林の次世代のエース、梶岡も250イニングスを越える過酷な登板をこなしている。

年度 登板 先発 完投 完了 投球回数 奪三振
47年 37 28 24 280.1 102
48年 50 41 35 367.2 124

梶岡もストレートにこだわった豪腕投手だったが、3年目以降はイニング数を減らしている。梶岡も49年に肩を壊した。

この時代、1試合あたりの投球数が現代野球よりは少なかったとは言え、年間300イニングと言うのは、やはり過度な登板だった。
ただし、梶岡の場合もオフに休養し、翌年以降復活して勝ち星を稼いだ。


その他に250イニングを越える登板数をこなした投手は2例ある。

藤村隆男

年度 登板 先発 完投 完了 投球回数 奪三振
49年 47 33 19 286.2 120

大崎三男

年度 登板 先発 完投 完了 投球回数 奪三振
56年 63 37 12 18 260.1 84

タイガースでの250イニングスを越える登板は長い歴史の中でもこのぐらいである。
すなわち、西村一孔の55年・登板295イニングは 当時で最高レベルの登板数だった。酷使と呼ぶにふさわしい。

これはあくまでも私の考えだが、1年目の登板の疲労だけならそれで投手生命を奪われるまでではなく、若林や梶岡のように復帰できるものだったのではないかと思います。
それよりも翌年、同時に盲腸炎を拗らせた事が不幸だったと思います。
この時代に2ケ月も入院し、体が出来ていない所で翌シーズンを迎えたことは、トレーニングという考え方が出来ている現代野球では考えにくい酷使であろう。まだ精神論のみで野球をやっていた時代の犠牲であったろう。

59年60年と登板できないまま西村は引退を迎えた。
61年に1年だけ二軍のコーチを務めたが、翌年には監督が藤本定義に交替して解雇となった。「悔いはありません」との言葉を残して球団を去った。
野球を離れ、知人の紹介でレストラン・ビクトリアに入社。最終の役職は専務取締役でした。

1999年3月1日 胆管癌により63歳でこの世を去りました。同年4月になくなった別当薫さんは享年78歳でしたから、まだ早すぎました。


制定 2003年11月
改訂1 2010年7月11日

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げんまつWEBタイガース歴史研究室