猛虎偉人伝2

満開の桜のように散った豪腕 西村一孔  その3


1954年、12月14日。阪神タイガースは西村一孔投手との契約が合意に達したと発表した。

西村との交渉には、当時の敏腕・青木一三スカウトは関与しておらず、浅野マネージャーが交渉を行ったそうだ。
詳細はわからないが、浅野が入団の誘いをかけると西村が即座に承諾した、まさに「むこうから来てくれた」ような話だったらしい。
もちろん、実績ある投手なので契約金・年棒は新人選手の中ではトップだった。

西村一孔投手の事を、通常「西村一」と表現するのですが、それは同じ55年入団の同期の投手で「西村孜」がいたためです。
西村一孔は西村孜より年下でしたが一回り大きい体をしていました。

西村孜投手のご子息からメールを頂いた事がありますので、メールを抜粋して掲載いたします。

昭和30年に1年間大阪タイガースに所属していた西村孜の息子で す。 「猛虎歴研」見せていただきまして、親父の名前を発見し、 実働がなかったにもかかわらず掲載されていて嬉しく思った次第です。ちなみに西村一孔投手が「いっこう」と呼ばれたのはうちの親父がいたからだそ うで。 また、小山投手、米田投手(高校の後輩)とは懇意にしていただいていたようで す。 親父が健在ならもっといろいろ情報がお伝えできたかと思うと残念です。

1955年度は4月までに18人の新人が入団しました。新入団選手のほとんどは2軍要員の高校生でした。55年の春季キャンプは一軍を甲子園・二軍を日生球場に分離して実施。一軍組は総勢29人が参加しましたが、一軍組に抜擢された新人は社会人経験のあった鹿野・西村一・西村孜の3人だけでした。甲子園で活躍した秋光佐藤ら期待の高校生も二軍スタートでした。

西村一孔の記録に残る初登板は3月2日甲子園でのオープン戦です。先発・大崎が崩れて近鉄に1−5で負けた試合の2番手投手としてでマウンドに上がりました。

翌日、3月3日は大阪球場で近鉄戦に先発、11−5で阪神が勝利、西村が勝利投手となった。
その後、オープン戦では3月17日の阪急定期戦、読売旗大会での好投し開幕をむかえる。36年藤村富美男・52年三船についでタイガース史上3人目のルーキー開幕投手となった。1955年は大洋との東海遠征、4月5日の浜松球場が開幕戦だった。先発した西村は6回7安打2失点ながら勝利投手となった。
この年、55年の大活躍により新人王を受賞しました。

どのような投手なのか、当時の雑誌では西村一孔の投球フォームは『かつぎ投げ』と呼ばれていました。
ビデオを見ましたが独特なフォームでした。

実際に見られた方の言葉を引用します。
私よりかなり年上ですが仲良くして頂いている木村師匠は、西村一孔現役当時によく応援していたそうです。

「西村一孔」ね、よく覚えていますが、細かいことは段々忘却の彼方ですね。
確か入団の年か翌年の開幕戦か何かで観ましたね。大学の頃ですから、東京にいましたからね、おかしい気もするが、 球場は間違いなく甲子園だったようにも思います。わざわざ甲子園に行ったのかな。
いずれにせよ、若林とか御園生や渡辺省三のような技巧派でなく、スピードがありました。 投球フォームが特異でして、バックが小さく、上体で投げると言うか 耳の辺りからビューンと出てきましたね。 それにドロップ(今の縦に落ちるカーブかスライダー)もあったから余り打たれる気がしなかった。新人王になったのでしょう。 いやー、懐かしい、元キャッチャーでしたから、活躍できるのかと心配したほどでしたが、10勝以上はしているでしょう。肩を壊して直ぐ消えてしまいましたが、もういい年でしょう、私と同じくらいの年代ですよ。

木村師匠の話からすると、この話は56年の甲子園での開幕戦の時でしょうかね。
3月末なので大学も休みですし。

ビデオ(昔の16ミリフィルムの映像をビデオに編集したビデオで再生速度がぎこちない)でみた印象ですと、テークバックが小さいが、そこから右手が伸びて大きな弧を描くような投げ方。まさに速球投手です。


制定 2003年11月
改訂1 2010年7月11日

その2へ

その4へ

げんまつWEBタイガース歴史研究室