猛虎偉人伝1

初代巨人キラー 西村幸生 その2


その少年時代

幸生は1910年(明治43年)11月10日、三重県宇治山田市大世古町に出生。男ばかり3人兄弟の次男、兄が幸之助で弟が久生という。厚生小学校に進み、大正12年に県立宇治山田中学(山中)に入学した。留年したので同級生より1歳年上だった。頭はいいのだが嫌いな先生がいて、その授業に出なかったために留年したらしい。「河馬」というあだ名がついたそうだ。野球部では主将兼エースとして活躍、毎日昼休みにも練習を欠かさなかったという。山中野球黄金時代を築き東海大会に出場したが残念ながら甲子園には出場できず、昭和4年3月山中30期生として卒業した。
生家や小学校などはすべて昭和20年7月の空襲で焼失した。西村が伊勢にいた頃の思い出の場所はすべて焼失したのだが、伊勢にただ一軒、熱心なタイガースファンが訪ねていく西村ゆかりの場所がある。伊勢神宮の外宮にあるうなぎ料理店「喜多や」だ。西村の実弟久生さん、そして現在は久生さんの長男・西村隆明さんが経営している。右のリーフレットはこの店に訪れる人の為に配られているものです。このリーフレットの裏に書かれた言葉の一部を記載します。
「最近墓の土を欲しい、あやかりたいとの人のご訪問が多く、西村幸生が最後となりました戦下からのハガキを複写。記念品とし、野球を志し、楽しむ方々の目標、心の糧としていただければと思います。第二第三のサムライ投手、サムライ打者が育たんことを、西村幸生も望み、祈っていることでしょう。」
西村幸生は戦前の投手、そう考えていたのですが、今なお西村幸生が人の心に強く生きている事に、私は強く心を打たれた気がしました。
隆明さんは1943年伊勢市生まれ、投手として宇治山田高校・関西大学の野球部に在籍され、家業を継ぐまではデュプロで監督まで勤めたそうだ。デュプロ出身阪神選手にに樫出三郎がいるが、隆明さんは4つ先輩になる。「凪」に隆明さんの手記が載っている。
「三っつ違いの親父は、兄・幸生の崇拝者だったですね。面と向かって野球をやれと言われた事はありませんが、物心ついた頃には私はもう野球をしていました。叔父とは一度も会った事はなかったですが、体型や顔つきは私とよく似ていたそうです。叔父の子供は4人とも女でしたから親父は私に期待していたようです。」 なぜ、没後60年近い今も喜多やでこのリーフレットを配っているのかわかる気がします。

名古屋

中学を終えて西村は名古屋で愛知電機鉄道(今の名鉄)に勤務した。プロ野球創世記に使われた鳴海球場は愛知電鉄のもので、その鳴海球場に愛知電鉄は実業団チーム「鳴海倶楽部」を持っていた。西村は鳴海で2年間プレーしたが、西村のピッチングが注目され関西大学のOBの目にとまったそうだ。関大が鳴海球場を訪れた際に勧誘されたという。

関西大学

関西大学野球部には3度の黄金期がある。第二期は村山実氏、第三期は山口高志氏であるが、もちろん第一期は西村幸生の時代だ。1931年に22歳で入学した。当時のエースはタイガースファンなら知っている初代監督候補の本田竹蔵だった。
1932年春のシーズンから本田との二枚看板として活躍し、関大を32年春・秋と連覇に導く、そして関西の王者として東大以外の東京六大学と対戦し、5勝1敗と東京六大学撫で切りの活躍をする。6戦のスコアは
関大8−3明治
関大3−1立教
関大6−3慶応
関大1−0法政
関大0−4慶応
関大5−4早稲田
ちなみに法政戦の相手投手は若林ではない。
事実上の日本一であり、大学のはからいでハワイに遠征(この船上で末子夫人と運命的な出会いをする)し、9勝3敗の成績を残す。
33年春・秋は北井正雄との主軸で優勝し四期連続優勝となる。34年、関大が一旦リーグを脱退するため連覇は途切れたが、35年春・秋は御園生崇雄を得て優勝。
36年春・秋と再び四連覇。関大の躍進には西村以外にも好投手がいたのだが、西村はエース、主将として関西大学を引っ張る。写真は優勝杯を受け取る主将西村。
6年間の大学生活を終えて卒業した。

卒業

西村は卒業と同時にタイガースに入団した。
この時、本田竹蔵が監督を勤めていた大阪鉄道管理局、北井がいた大阪阪急野球協会、エース若林がタイガースに離脱してしまった川崎コロムビアなどが勧誘に訪れ、一旦はコロムビアに入社を決めたそうだ。
タイガースは36年のシーズン、強かったのだがここ一番の試合で選手が不足した。若林・御園生・景浦・藤村と投手は粒ぞろいだったが、野手が不足していた。もう1枚、しっかりした投手を入団させて景浦を打撃に専念させたかった。
西村はコロムビアに就職が決まっていたが、タイガースの田中義一常務・中川政人マネージャーは関西大学出身で西村の先輩にあたるのだ。球団の提示額は支度金3千円・月給180円、西村の条件は支度金5千円・月給150円だったため条件が合わず、田中常務は伊勢の西村の実家まで出向き、西村の父と話し合って合意に達した。
若林忠志が阪急との競争で値段がつりあがったとはいえ、保障金1万円・月給250円だったため安い気もします。これはいくら日本一といっても東京六大学と関西大学との差なのでしょうか。なお、金額は松木謙次郎氏の記述によりますので、正しくないかもしれません。


その3に続く

げんまつWEBタイガース歴史研究室