36年夏、日本初のプロ野球チームによるトーナメント(東京大会)が行われた。アメリカ帰りの巨人が圧勝するだろうという大方の予想を裏切って、巨人は一回戦で名古屋に敗退。次の大阪大会、名古屋大会でも一回戦で姿を消してしまったのであった。我らがタイガースは名古屋大会で優勝した。
巨人の藤本定義監督は群馬県の分福球場で血ヘドを吐く猛特訓を行い、選手らを叩き直した。その甲斐あってか秋のリーグ戦がはじまると、大方の予想を裏切って巨人は快調に勝ち星を重ねた。この原動力になったのが巨人のエース、沢村栄治(写真)だった。沢村は西村と同じ宇治山田の出身で、高校は京都であるにもかかわらず全日本からの流れで巨人に入った投手だ。9月25日のタイガース−巨人戦で沢村にタイガース打線はノーヒット・ノーランに押さえ込まれた。結局、タイガースは勝率で上回ったものの、勝ち点は巨人と同じで首位に並んだ。巨人とで争われたプレイオフは、1勝2敗で敗退し、プロ野球公式戦の初代チャンピオンを奪われた。この時の巨人はエース沢村が三連投したのだ。沢村に対抗する投手はどうしても欲しかったのだ。
37年、春のシーズンでも沢村の投球は冴え渡った。豪打を誇るタイガース相手に、二度目の無安打無得点をやってのけたのである。
しかしこの年、タイガースに一人の投手が加わっていた。それが西村幸生だ。開幕投手こそ景浦であったが、3月27日開幕第二戦のイーグルス戦に先発した西村は2点を失ったものの、初登板初勝利を記録した。イーグルスの投手は前年タイガースにいた古川だった。5日後、次のセネターズ戦では6−0と鮮やかな完封勝利を収めた。
沢村、西村の活躍で、春季リーグ戦は巨人とタイガースが俄烈な首位争いを演じ、勝ち星はともに41と並んだ。しかし、タイガースに負けが1つ多くて0.5ゲーム差で巨人が逃げ切られた。春季は沢村が24勝4敗、西村が9勝3敗で互角ともいえた。西村は4月にこそ2敗したが、徐々に調子があがり7月9日の大東京戦で敗戦投手になるまで、リリーフで出た景浦が打たれた2試合を除き、登板した試合すべてが勝利に結びついた。勝ち星こそ11勝の景浦に及ばなかったものの景浦の勝ち星の半分はリリーフで上げた。投球回116.2はチームで最多であった。まさに、タイガース投手陣の柱となったのだった。
しかし、タイガースの対巨人戦の成績は3勝5敗、負け試合はすべて沢村が投げている。春のシーズン、西村は巨人からは勝ち星を上げられなかった。それで同郷で七つも年下の沢村に激しいライバル心を燃やしたそうだ。37年秋以降の活躍は、これがバネになっているのでしょう。
37年秋のシーズン。打倒巨人に燃えるタイガースは夏の間に松木謙次郎のアイデアで打倒沢村の特訓を行ったほどだ。開幕から首位を独走。破竹の14連勝を重ねるなど、二位の巨人を9ゲーム引き離て優勝を納めたのである。対巨人戦はなんと7戦全勝だったが、そのうち4つの勝ち星を西村が収めた。「初代巨人キラー」の誰生だ。
西村はこの年、25試合に登板し、15勝3敗、防御率1・48で投手部門の二冠を達成。投球回数は182.1だがチーム合計が447.2試合だったで一人で、強力タイガース投手陣の中にあって40%を投げたのだ。4勝2敗で巨人を下した年度優勝戦でも、西村は3勝無敗と大活躍した。
西村は優勝チームのエースで、勝利数と防御率が1位。勝率・完封勝利数・奪三振が2位、誰が見ても文句の付けようがない成績で常識ではMVPは西村のはずであった。が、MVPに選ばれたのは3位イーグルスのハリス捕手(写真)だった。ハリスはバリバリのアメリカ人捕手。リードに長け、セカンドへの送球も座ったまま矢のような球を返す強肩。打率3割1分で五位、ホームランは1本で、打点が24。打撃成績は大したことないのだが、それだけ印象に残るプレーがあったのでしょう。当時は、職業野球を支える側も夢があった。ハリスのプレーはその夢をかなえる玄人受けするプレーだったのでしょう。西村がMVPになれなかったのは選ぶ側の問題である。
西村は38年春のシーズンでもタイガースの連覇に大きく貢献した。19試合に登板して11勝4敗、防御率1.52、防御率が一位・勝利数・勝率・奪三振は三位であった。しかしMVPには、打率9位・ホームラン2位・打点15ながら守備で魅せ、後に殿堂入りしたセネターズ苅田久徳が選ばれたのであった。セネターズの戦績は5位だった。戦前の職業野球においてMVPが優勝チームから選ばれなかったのは、この2回だけだった。ハリス・苅田で当時の野球のMVPの位置付けがわかると思うが、どうも附に落ちないのだ。