2003年のマスターズリーグのセレクションに高齢の投手OBが参加した。その時のデイリースポーツの記事が以下のとおりだ。
70歳を目前にして猛虎魂はなお健在だ。 プロ野球マスターズリーグの新入団候補選手セレクションが29日、東京・大田区の大田スタジアムで行われ、19人が受験。 元阪神の西尾慈高さんが最高齢の69歳で参加した。左の技巧派として通算39勝を挙げた西尾さんは直球にカーブ、フォークも披露した。 95年の阪神大震災では両肩脱きゅうの重傷を負い、一時は大好きな草野球もできなくなった。 医者から見放されたが、自力で投球できるまでに復活。「自分の姿を見てもらって、高齢者の励みになれば」。合否は6月20日以降に決定する。 |
西尾選手の現役時代はどうだったのでしょうかと、当時いくつか質問を受けましたので、今回少しまとめてみたいと思います。
1934年2月29日、京都の下鴨神社の西側で賀茂川との間の下鴨宮崎町に生まれた。父親は自宅で電気商で兄姉と妹の4人兄弟。
西尾自身が幼少期の自分を語った言葉を引用すると「僕は小さいときからボンボンで、なんの苦労もなく育ってきた。」不自由なく育ったと言う事になる。
だが、クチより先に手が出るヤンチャ。近所でも札付きの腕白坊主で、だれも遊び相手になってくれるものがいない有様だったそうな。友達が出来なかったことが、幼心に寂しさをもたらせ、さらに反抗的な気持ちを抱かせることになった。この気持ちこそが、西尾が現役時代に苦労する原因であり、引退後も野球を愛し続ける原因でもある。
立命館中学に進学した頃には、そのヤンチャぶりも野球への情熱へと進化し、ただひたすら野球に打ち込む事で友達が増えた。野球が西尾の人付き合いを変えた。
手元の資料では立命館中学出身となっている。彼が通ったのは上加茂にあった立命二中、立命館神山中学・高校だ。この神山高校は6・3制による義務教育化と戦後インフレの影響により、西尾が卒業した直後の1952年4月に北大路学舎に併合されて廃校となった。現在も神山山麓に立命館の所有地がある。母校は統合により廃校となったので、統合校の立命館高校卒業となっている。
中学1年から野球部に籍を置いたが、入退部を繰り返していた。守備位置は主に一塁手だった。高校に上がった頃から投手を掛け持ちするようになり、立命館神山高校2年頃から本格的に投手となる。
高校野球地方大会では同世代の吉田義男の山城高校が甲子園に出場した。立命館神山はベスト8クラスだった。
西尾が投手として本格的に開花するのは立命館大学時代。中学高校の頃は野球に必ずしも熱心ではなかったが、野球を始めたことで友達を増やしていった最も楽しかった時代のひとつだと西尾は語っていた。
立命館大学の経済学部に進学した西尾は三度のメシより野球を愛するようになっていた。ボールを握らない日はない。そして立命館大の猛練習に出会い、初めて才能が開花していった。大学の同期には吉田義男がいた。吉田は大学1年を終えた時点で中退しタイガースに入団した。
西尾は京都に準フランチャイズを置いていたロビンスが好きな球団だった。基本的にアンチ巨人で弱い球団を応援していたという。
大学3年生の春のリーグ戦で立命館が優勝。夏の大学選手権に出場した。その頃に吉田義男を口説き落として中退させた青木スカウトが西尾に接触。「吉田君が1年前に入団しているし、関西の球団ということでタイガース入りすることにした」と8月31日に大学を中退してのタイガース入団を表明した。
その頃、同じ左腕投手の紀藤広光、吉田の次のショート岡嶋博治もそろって立命館大を退学し中日ドラゴンズに入団した。立命館では全員が中途退学だったのでかなりの問題となった。
2007.5.12改訂