1954年は9月に入団し、2試合に登板した。
プロ初登板は1954年9月20日、日生球場での広島戦だった。
先発大崎が早々に崩れて5投手継投の負けパターンでの登板で、真田の後を受けて1回1/3を投げて被安打2、失点2、自責点1だった。
次の試合は10月24日の甲子園球場、巨人戦。
2−6とリードされた8回の頭から登板し、1イニングを3人で終わらせた。
1955年には13試合に登板した。結果的に0勝2敗という成績だったが、6度の先発試合で敗戦がついたのは1度だけ、他の5試合はリリーフ投手が責任投手となった。記録上は先発投手だったが交代が早くて登板回数は少なかった。おまけに肩を悪くしてピッチングフォームを崩し、7〜8月は一軍で登板することができなかった。ルーキー西村一孔が脚光を浴びる中、西尾の存在は忘れられていった。
1956年の春季キャンプは甲子園球場がナイター工事を行っていたため、一軍は奈良鴻池球場でキャンプを行った。西尾は甲子園居残り組みとなり工事の騒音の中、二軍で練習を行っていた。井崎勤也という超高校級の左腕投手が入団した。中途退学して鳴り物入りで入団した貴重な左腕投手はすでに見捨てられていた。
子供の頃から壁にぶつかった事がなかった西尾は人生初めての大きな壁にぶつかった。現代のように投手コーチがつきっきりで指導してくれるような時代ではなく、独力で技術を向上させねば這い上がれなかった。しかし幸いにも肩の調子がよくなった。
この時代に名サウスポーと言われていた巨人の中尾や、いくつかの右投手を研究し、自らのフォームを作り出した。
オープン戦の間、左投手でライバルとされた井崎の調子が上がってこなかった。
3月11日大阪球場での南海戦で西尾にチャンスが与えられた。リリーフでオープン戦ながら勝利投手となった。
開幕一軍に選ばれたのは球団上げて獲得した井崎だったが、結局調子が上がらなかった井崎と入れ替わって西尾が4月中旬に一軍に昇格した。
4月14日に敗戦処理で登板した後、15日の第一試合に先発、4回まで無失点ながら5回表にランナーを2人出したところで西村一孔と交代し試合には勝った。4月21日の巨人戦も先発で4回まで無失点ながら5回に同点に追いつかれて降板、なかなか5回の壁を越えられなかった。
さらに4月24日、28日と先発したが勝てなかった。
立命館大学で同じ釜の飯を食った吉田義男は、とにかく西尾に勝たせたいと全力でプレーしていた。
4月29日、甲子園球場で行われた中日ダブルヘッダーの2試合目、前日に続いて西尾が先発した。初回、吉田は初球を三塁線にセーフティバントして出塁、吉田が走った所で2番大津はランアンドヒットを試みたがピッチャーゴロ。しかし投手の児玉が焦ってファンブルし、さらに一塁に大悪送球したため俊足吉田がそのまま生還して1点が入った。この試合、これが決勝点になった。西尾は得意のドロップで中日を4安打完封。要所で吉田のファインプレーに支えられ、ついにプロ初勝利を記録した。西尾はおめでとうと駆け寄ってきた吉田義男に一言感謝の言葉を送った。
この年、7月22日巨人戦でも先発で勝利したが、この試合でも吉田義男が本塁打を放っている。
また7月29日国鉄戦(4人目で登板)で勝ち星をもらい結局3勝3敗だった。防御率は2.80だった。
1957年は開幕投手に選ばれたが、結局1勝しかできなかった。1ゲーム差までつめながら結局巨人に優勝されたのは西尾が1勝しか出来なかったからだとまで言われた。
6月16日、広島10回戦で完投勝利をおさめたが、この勝利すらも藤井・原田信に本塁打を浴びての4失点、完璧とは言えなかった。
1956年の初勝利も、その後の活躍もホンモノではなかった。活躍した翌年にダメになる、西尾もこのジンクスにはまった。技術を理解したが体力が伴っていないのですぐにフォームが崩れるのだった。
1957年オフは休まずにランニングする事にした。この頃、タイガースには入団3年未満の選手だけが強制参加する松葉トレーナーの厳しいトレーニングがあったが、西尾は自主的に参加し、毎朝甲子園球場に一番乗りで姿を見せた。背番号も28に変更し心機一転した。春季キャンプには体が出来上がった状態で参加し、オープン戦で5試合に登板した。
3月30日のオープン戦で国鉄を完封し、いい状態でシーズンに入った。
1958年は開幕で渡辺省をリリーフしてまず1勝目、結局11勝をあげた。
なかでも5月5日・5月18日の大洋戦と8月31日広島戦の3試合の完封勝利が光る。8月3日巨人戦も別所と投げ合っての1失点完投勝利で長嶋茂雄を4打数無安打に抑えた。1958年は11勝10敗 防御率2.71と、ついに一戦級投手の仲間入りを果たした。規定投球回数にはわずか1イニング不足したものの、防御率ベストテン投手と同等に評価できるような成績だった。
翌1959年も8勝をあげ、小山・村山の両エースの谷間を埋める左腕投手として大活躍した。球団誌などでもスター選手扱いとなり、合宿所を出て近くのアパートに住むようになった。
1960年は4勝4敗に終わった。
成績の悪化による首脳陣との確執があったようで、そのオフ中日へトレードされた。西尾・星山−伊奈・横地の交換トレードだった。
この当時のトレードは結局選手と監督の確執によるものがほとんどである。中日の濃人監督が伊奈を出したいために話を進めたトレードだった。伊奈が来るならと言う事で西尾を出したが、二度も二桁勝利を記録した伊奈はタイガースではわずか7勝しかできなかった。環境が変わった西尾も活躍はできず、このトレードは失敗だった。好き嫌いでチーム編成を行ってはダメだと言うことだ。
西尾を放出したタイガースは、同時に井崎(前岡)も中日に放出して、代わりに伊奈を含む6人の左投手を獲得したが、結局 サウスポーで二桁勝利するような投手は1967年の江夏豊まで現れる事はなかった。
西尾の中日時代にひとつの逸話が残っている。西尾はアメリカ製のよいグラブを偶然所持していた。これを中日の中登志雄がいたく気に入りもらい受け、引退まで大切に使い続けたと言う。いつしか「破れグラブの中」というニックネームがついた。「自分の手の平は取りかえるわけにはいきません」との名言を残したそのグローブは西尾のものだった。
1965年まで現役を続けた。中日時代に得た勝星は12勝 通算39勝40敗、31歳で現役を終えた。
引退後はタイガースOB行事に必ず顔を出されるほど野球には熱心な方である。