1946年の正月大会の出場メンバーはリンクのとおりだ。
ほかに投手がいなかったので、富樫淳が投手だった。
だが、中学の時に肩を痛めていたので、多くの試合で投げる事もできず、シーズンでは外野手に転向した。
公式戦の投手としてはわずか3試合、4.1回で打者21人に4安打5四球3失点、防御率3.60との数字が残っている。
1946年の4月30日パシフィック戦、6月1日中部日本戦、9月12日中部日本戦 いづれも2番手で登板している。
打者としてはこの年、105試合中66試合に出場し打率.270だった。
タイガースの外野陣はレフト金田、センター呉、ライト御園生と不動のメンバーだった。しかし、この年のタイガースは投手不足だったのでライトの御園生とセンターの呉が投手に入る事が多く、そのような試合で富樫淳は外野の控えとして、時には5番打者として4番藤村富美男の後に打席に入った。
7月13日、金沢球場でのゴールドスター戦。金沢球場は陸上競技場と併用だったため外野フェンスがなく、鉄線を張って観覧席との境界を決めていた。右翼は狭く、外野飛球を追った富樫淳は鉄線に足をとられて転倒、胸を打って気絶して病院に担ぎ込まれたと言う。
不幸な事に、この試合後数試合欠場事となった。
その間に成長著しい塚本が外野の控えとして活躍し、富樫淳の出番は減った。
翌47年は71試合に出場、打率.271と二年続いて安定した成績を残した。1試合だけ二塁を守った事も会った。
御園生を投手と代打に追いやって、外野の1角を守った。打順は呉、金田に次ぐ3番が多かった。最盛期は打率を.350まであげた。
しかし、この年も守備でケガをした。外野フライを捕捉中に左ひざをフェンスにぶつけた。数日後、腫れがひどくなって病院に行った所、膝が割れて化膿していた。足を切断する事も考えられたが、新薬ペニシリンによってなんとか治癒したという。
とにかく怪我になかされた
1948年は大打者・別当薫が入団し、守備位置を奪われた。
また前年の故障の影響によりシーズン後半に6試合出場したに過ぎない。
1949年、開幕当初は快調だったが、結局26試合の出場に終わった。
肋膜と診断されていたようだが、戦後大流行し国民病とまで言われた肺結核を患ったようだ。当時、肺結核は不治の病とも言われていた。タイガースの選手でも御園生崇男や櫟信平などが患って選手生命を追われている。
結局、1950年 回復の見込みがないと判断し、引退した。
5年もの闘病生活が始まった。スプレプトマイシンを注射して治療を続けた。
1950年、父親・富樫興一も2リーグ分裂の責任をとるような形で、形式上は球団を追われるような形で退団した。冨樫興一は巨人・阪神戦を守りセ・リーグの繁栄を築いた功労者だったので生涯セリーグ理事として勤務した。