小倉工時代は「投げて良し・打って良し」評判の好選手だった。
タイガースと巨人で争奪戦を繰り広げ、最初の条件から支度金を400万円上積みして契約した。
戦争の為、タイガースでは2年の短い選手生活で実績を残すに至らなかった。
1918.5.26生
出身地 福岡県
出身校 小倉工業
外野手 右投右打
34年 春夏甲子園にエースで出場
35年 春甲子園にエースで出場
36年 春夏連続甲子園出場 春は1回戦で本塁打を打ったが青木の桐生中学に破れた
タイガースは門司鉄道管理局の大橋棣を通じて入団交渉、11月30日大阪タイガースに入団
37年春 大阪タイガース 背番号26番 20試合 .100
37年秋 15試合 .250 12月28日契約更新
38年春 8試合 .333
38年秋 8試合 .143 暮に20歳で応召
戦争中 ビルマ戦線で脚を負傷
戦後 九州電力小倉支店変電課に入社
53年 九州大水害(西日本大水害)の際、感電死
実働2年 出場51試合 打数51 安打10 打点2 盗塁4 三振12 打率.196
ご参考:戦没選手を奉る碑