1945年 第九回東西対抗 

戦後のプロ野球復興初の開催となった1945年秋の東西対抗戦。


背景

1945年の東西対抗は第9回東西対抗とされ、それまでの東西対抗と同等に扱われているように見れるが、一般的な東西対抗とは大きく異なる。

戦後、プロ野球の復興は関西のチームを中心に進みはじめていた。
阪急軍は西宮球場が無事だった事と、選手も西宮球場内で作業していたのでチームの復興が早かった。近畿日本も比較的早くチームを整えたし、朝日軍は奈良に戦力を温存(橋本を中心に朝日軍としてではなく金星として独立してしまうのだが)していた。
タイガースは富樫代表が不在のために整備が遅れていたが、関西では1944年以後のように関西4球団だけで職業野球を再開しようという動きがあった。

しかし「プロ野球は巨人から」と考えるメンバーは、なんとか巨人の参加できるリーグ戦を考えていた。しかしリーグ復活を目指したものの巨人には単独で試合ができる人員が揃っていなかった。何より巨人軍代表・正力松太郎は戦犯として捕らえられており、読売新聞は野球どころではなかった。

そのような背景だったので、リーグ戦は無理で東西対抗という形で開催した。
戦争が終わってまだ3ケ月しかたっておらず、ほとんどの国民は野球どころではなかったであろう。
後楽園や甲子園が米軍に接取されている中で、進駐軍が使用しない日を選んで神宮球場を借用する事が出来た。これだけの選手が汽車で移動する事や、選手の食料を確保する事も大変だったろう。

4試合の開催とメンバー

11月23日神宮球場  11月24日桐生球場  12月1日・2日 西宮球場(2試合)

東軍 巨人・名古屋・セネターズ
監督 横沢三郎(セ)
投手 藤本英雄(巨)諏訪裕良(巨)白木義一郎(セ)西沢道夫(名)森井茂(名)
捕手 藤原鉄之助(名)楠安夫(巨)
内野手 近藤貞雄(巨)飯島滋弥(セ)千葉茂(巨)三好主(巨)金山次郎(名)
外野手 加藤正二(名)呉新亨(巨)古川清蔵(名)大下弘(セ)

西軍 阪神・阪急・近畿日本・朝日
監督 藤本定義(朝)
投手 笠松実(急)丸尾千年次(急)別所昭(近)丸山二三雄(近)富樫淳(神)
捕手 土井垣武(神)
内野手 野口明(急)本堂保次(神)藤村富美男(神)上田藤夫(急)鶴岡一人(近)
外野手 呉昌征(神)岡村俊昭(近)三木久一(急)下社邦男(急)

MVPは東軍の無名の新人・大下弘が獲得した。後に「青バット」で活躍する大下のプロデビュー戦だった。

この試合でのタイガース

タイガースの戦後復興は遅れていた。
球団代表の富樫興一は疎開先の米沢からなかなか戻れなかった。阪神電鉄の受けた被害も大きく、その資産の多くを進駐軍に抑えられた。この東西対抗にはタイガース自体の力ではなく、職業野球連盟としてこの東西対抗に向けて動いていた人達によって集められたようなものだ。
藤村冨美男は呉で特攻艦を埋める作業をしていた所に届いた連盟からの手紙で野球がある事を知り復帰した。土井垣武も復員後は鳥取にいたが同様にして集まった。彼らを集めたのは職業野球連盟だった。
それとは別に、阪神に集結していたグループもいた。戦時中・戦後を通して阪神電鉄で勤務したメンバー、戦後の苦しい食糧事情の中で門前は復員後故郷・広島に帰ったが、阪神電鉄で職を得ていた本堂・呉はいち早くタイガースに合流した。
富樫淳は富樫興一の長男で大阪の八尾で従軍していた。離隊を機会にタイガースに加入した。
彼ら、東西対抗出場組を中心にチームは再結成された。

東西対抗ではタイガース選手は思ったほどに活躍できていない。甲子園も接取されており十分な練習などできなかったのだ。この試合からさらに1ケ月経った1月の正月大会でも、わずか10人の選手しか集まっていなかった。

朝日新聞の記事によれば阪~からは
(投手)富樫
(捕手)土井垣・内藤
(内野手)本堂・藤村
(外野手)呉
が参加していると書かれている。捕手・内藤は誤植です。戦後の混乱期であり、新聞の誤植も仕方ない時期かと思います。

1945甲子園球場

1946正月大会


この東西対抗試合について 鈴木明 著「昭和20年 11月23日のプレイボール」光人社 は、読物として非常におもしろいので推薦します。

げんまつWEbタイガース歴史研究室