弱い田中タイガース 1959年

1959年、最終成績は2位だ。
しかし強烈に弱く観客動員は年間わずかに52万人。5月中旬には球団史上初の最下位に転落した。


ベースボールマガジン 1959年2月号 カイザー田中監督のインタビューの抜粋だ。

Q 田宮の退団は大きいと思うのですが
A 去年、ウチの3割打者は田宮1人だった。しかし、今となってはそんな泣き言は言ってられない。
Q 投手陣では大崎が抜けました
A 少なくとも15勝投手だった投手が1人抜けたのは、マイナスになる事
Q そうすると今年は悲観材料が多いようだが
A しかし、若手がぐんぐん伸びてきているので楽しみです。ピッチャーの本間・米川 打撃の遠井・星山。それと藤本の成長だ。
Q 今シーズンの自信の程を
A 田宮が抜けたから阪神は弱くなったと世間から言われたくない。だから現有勢力伸長で優勝を目標にします。

投手に新人村山実が加入したものの、4番打者の田宮がA級10年選手で移籍してしまった。
3割打者の吉田・三宅 主戦級の小山・渡辺は活躍するだろうが、この年に加入したレギュラークラスは村山ぐらい。打撃陣に並木・西山・大津・横山・藤本、投手陣に西尾・石川・梅本・西村一らで何とか底上げを と考えていた。
当初より投手・内野手・捕手が薄いと思われ、このインタビューの後 カイザーはハワイに選手発掘の旅に出た。しかし、日本に連れてこれたのはただ1人、捕手の藤重だけだった。

当時、この状況下で吉田義男はこう語った。

やはり日本の野球チームは、日本人がやらねばならない。例え外人を連れてきても、それでは人気がないだろう。ファンはついてきてくれない。それよりも自分達でやって好成績を残せばファンはどれほど喜んでくれるか。

そして新聞にはこう書かれた。

劣勢を克服して今季にいどんだ阪神

1959年3月2日、甲子園球場。
7−3で勝利した、この年初めてのオープン戦は巨人戦。偉大なる藤村富美男の引退試合だった。ひとつの時代が終わった。
そしてオープン戦は急性肝炎の三宅を欠きながらも5勝6敗1分と、悪くない成績を収めた。

開幕戦は小山、第二戦は村山の2試合連続完封勝利でスタートしたタイガース。しかし2連勝のあと、なんと5連敗。4月22日に小山の完投勝利でようやく3勝目をあげたが、直後に2連敗。そして2連勝−4連敗−4連勝−6連敗。5月17日で9勝17敗と球団史上初めての最下位に転落したのだった。
勝ち星を挙げたのは 小山4勝4敗、村山2勝4敗、西尾2勝3敗、石川1勝3敗 計算に入っていた渡辺省は0勝3敗だった。26試合で奪った得点は64点、1試合あたり平均2.6点、2点以下の試合は15試合もあった。新人・村山も頑張ったが打てなかった。田宮の穴はそれ程大きかったのだ。
さらに、切り込み体調の吉田が絶不調。藤本・西山・大津・三宅の中軸もそろってスランプに落ち込んだ。

報道は厳しかった。
「あれでは高校野球だ」「やめてしまえ」
チームの不和もある事ない事を書かれ、田中作戦に対する批判も厳しく「あれだけバントをすれば相手に作戦を見抜かれてしまう」といったような論調だ。ファンは勝ち試合でも田中監督を汚くののしった。
そして、野田誠三社長の現場介入が起こった。二軍監督だった金田正泰を一軍打撃コーチに昇格させた。5月19日からの巨人戦を3連勝すると16勝6敗3分で25試合を乗り切り3位に順位を戻した。打線は大して変わらなかったが25試合中18試合で投手陣が2点以下に抑える好投を見せたのだ。投手力で勝ったのだが、野球にそれほどよく理解していない野田社長は自分の介入によりチームが復活したと勘違いしてしまい、その後何年にも渡りチームへの介入を行うようになった。タイガースにとって、また一つ大きな不幸の始まりだった。

この間、球史に残る展覧試合が6月25日に行われた。
だが、悪魔に魅入られたように、小山・村山が好投した日に限り打線は打てず、一度は首位巨人に8ゲーム差までに縮め、7月末には2位に浮上したものの、その後、首位巨人には10ゲーム以上離されて8月中旬にはペナント争いから脱落した。
オールスター以降、甲子園で1万人を超えた試合は巨人戦だけ。甲子園のマンモススタンドがガラガラ。例えば9月15日の大洋戦は球団発表1500人だが実質は1000人もいなかった。
9月上旬のある日、カイザー監督は「ほんとうに申し訳なく思っている。今となってはどういわれても仕方ない。打つ手打つ手がウラ目ウラ目と出てしまった」とのコメント。2年契約の2年目、すでに辞意は固まっていたものと思われる。球団はこの年の勘違いからすでに金田監督の誕生を決めていたに違いない。

さて、カイザー監督への批判は厳しかったようだが、ベースボールマガジンの同情の言葉を引用してみよう。

あの戦力で、2位の座を死守できれば、たとえ戦いぶりがどれだけお粗末なものであっても文句のつけようもあるまい。もし田中監督をクビにして新監督を迎えても、このままの戦力ならば優勝なんて高嶺の花だろう。
なるほど、田中監督のインサイドベースボールとやらは単なるうたい文句だったかもしれない。しかし同監督は監督2年生。戦力が強力なのならともかく、あれじゃ反対によくやったと言えるのではないか。

敵将・水原監督はこう語る。

相対的に言って力は落ちた。やはり田宮・大崎の抜けた穴は大きかった。大崎の穴は村山がじゅうぶんにやっているのでまあまあとしても、田宮の穴は終盤にウチがもたつき始めた頃に大きく響いてきたようだ。もし、あのオールスター後に田宮がいれば、どうなっていたかわからない。

1959年
130試合62勝59敗9分 勝率.512 チーム防御率2.37はセ・リーグ1位。併殺115もリーグ1位。打てないと言われながらも打率.2369は2位中日とわずか5毛差の3位。
この年、沢村賞を獲得した村山実、121試合で4番を打ち初めてベストナインを獲得した藤本勝巳、鎌田・並木・遠井・浅越が頭角を示し、特に併殺の増加は鎌田の力が大きかったと言ってよい。チームとしての骨格が見えてきた。
11月25日、田中監督は辞任、あとを引き継いだ金田監督は3位・4位と順位を落としたのだった。


げんまつWEBタイガース歴史研究室