8.「いろはうた」での背番号の決定 〜歴史研究室の推測〜


いろは

個々の背番号を決めるにあたり、まず監督の森茂雄は25番をつけた。
監督は雲の上の人だから一番大きな番号をつけるのが当然だ。それは他のチームを見ても明らかである。

残りの選手の背番号については「いろは」順でつけられたと、資料に記載されている。

「いろは」と言っても平成の若い人にはピンと来ないはず、47文字すべてを順番に言えるだろうか? まずは解説しておく。
「いろはうた」とは、
「色は匂へど散りぬるを、わがよ誰そ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔ひもせず」
と書き表される七五調4句からなる歌で、900年にわたって手習いの基本とされていた。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

*旧仮名遣い 濁点は無視する

内野手不足で後に入団した二人、加藤信夫内野手(7月入団)と小島利男内野手(8月入団)は19番・20番と全メンバーの後に追い番でつけたと見られる事から、背番号は7月には既に決まっていたのだろう。ただ、当時の写真を見ても、前から写した写真ばかりなので、いつから背番号があるかは確認できない。(当時は胸番号がなかったので集合写真では番号が解からない)

推定

36年登録メンバーのうち、3月までに契約した選手を並べてみると、以下の順になる。

伊藤茂 伊賀上良平 小川年安 岡田崇芳 若林忠志 渡辺一夫 景浦将 滝野通則 村田重治 山口政信 松木謙治郎 古川正男 藤井勇 藤村富美男 佐藤武夫 佐藤栄一 菊矢吉男 御園生崇男 平桝敏男 門前真佐人

在籍時期がはっきりしない 佐藤栄一内野手 伊藤茂外野手 滝野通則内野手 の3人は、背番号が決められた時にはすでに在籍していなかったという事は、背番号を整理した上で明白となります。伊藤茂選手がいれば、伊賀上選手は「イの1番」にならなかったのだから。

残りの選手について背番号を「いろは」順で割り振ってみると、こういう番号になります。
1 伊賀上良平
2 小川年安
3 岡田崇芳
4 若林忠志(実際は18)
5 渡辺一夫
6 景浦将
7 村田重治
8 山口政信
9 松木謙治郎
10 藤村富美男 (ふぢむら)
11 藤井勇 (ふぢゐ)
12 古川正男(ふるかわ)
13 佐藤武夫(実際は19)
14 菊矢吉男
15 御園生崇男
16 平桝敏男
17 門前真佐人

以下は推測ですが、ルールどおりでない2人の選手(若林・佐藤)についての考察です。

「若林は特別にエースの18をつけた」との文書を見ますが、私はそうじゃないと思います。この頃、エースが18という風習はあるにはあったでしょうか、今ほど「18だからエース」とは思われていなかったはず。実際はもっとカッコ悪い理由じゃないでしょうか。
上のように 割り振りでは4番に決まったものの 4番や13番は「不吉な数字」である事から、若林と佐藤が嫌がったのではないかな? そういう意味で若林投手・佐藤捕手は一番最後の17番の後ろの18・19を着けたと推定できる。その方が佐藤の変更にも理由が出来て考え方がすっきりします。
推測ですので、確認の手だてはありません。
同様に日本人の嫌がる番号として9「苦しむ」もありますが、松木選手はそのまま着けている。松木選手は「苦を背負う」として50年の監督再任なども自分から9番をつけましたので、迷信をこだわらない人なのでしょう。

結果、1〜19番(4、13が欠番)が確定したと推定しています。


(参考)
以前、古川投手の12と藤村投手の10が入れ替わっていると思っていたのですが、先日 あ・たか さんからメールを頂きました。旧仮名遣いである事を忘れていました。以下原文掲載します。

〜「いろはうた」での背番号決定、における 古川選手と藤村選手の背番号が「入れ替わっている」ことについての私見です。 これについては、背番号11の藤井選手も含めて考える必要があります。 それぞれの3人の姓を、すべて旧仮名遣いで書くと 藤村→ふぢむら 藤井→ふぢゐ 古川→ふるかは となります。 いろは歌の順では ち→る そして む→ゐ ですから 藤村→藤井→古川の順が成立し、背番号と矛盾しない ことになります。 〜

次へ


背番号は 日本プロ野球60年史 (ベースボールマガジン社 1994年) に記載されているものを採用しました。

げんまつWEBタイガース歴史研究室