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プロ発足時の7球団を表にまとめる。(設立順) このように設立が進んだ新しい職業野球チームは 関西では阪急の宝塚球場や神戸市民球場、関東では横浜公園の野球場などを使用して、 2月頃から徐々に活動を始めていました。 対戦相手は新しい職業野球チーム同士や各地の有力なアマチュア球団相手でした。 |
1936年は、プロの歴史の中で長く続いている1シーズン制ではなかった。
1年目は顔見せ興行的な意味合いもあって、整ったリーグ戦ではなく、形態的には春・夏・秋
の3期に分かれて、各期に東京大会・名古屋大会・宝塚大会・大阪大会が組みこまれていた。
その間に様々なトーナメントや地方興行が組まれた。36年のメンバーで、記録に残る試合出場がほとんどない選手がいますが、彼らは地方興行の時などに主力を休ませるため出場しています。
プロ野球の祖を自負する東京巨人軍ではあるが、日本でのプロ野球の実質的な始まりとなった36年春は第二回渡米中でリーグに参加していない。職業リーグ創設時に創設者として巨人を伝説にしたがるのだが、最初の大会は巨人なしで他の6球団により開催されました。
4月19日、春の選抜大会を終えた甲子園球場にセネターズと金鯱軍を迎えて球団結成記念試合が開かれた。これが大阪タイガースとしての最初の対外試合となりました。
変則ダブルヘッダー2試合で、第一試合はタイガース−セネターズ、第二試合はタイガース−金鯱軍 のカードが組まれた。
有料入場者は4225人という事だから、甲子園のバックネット裏が満員になる程度の入場者数だったようだが、実際には無料の入場者も多数いたようなので、観客数は正確にはわからない。各試合のスタメンは次のとおり。
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タ軍 000000400|4 若林○−小川・門前 セ軍 000000000|0 野口●−北浦 捕手は途中から門前に交代した。 若林はセ軍を3安打に抑えた。 打線は7回に御園生・松木の連打と四球で満塁。門前タイムリー・若林スクイズ・岡田タイムリーで4点をあげた。 |
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第二試合の金鯱戦は藤村富美男が投手。5−3でタイガースの勝利だった。 3回2死満塁から御園生・松木が連打で3点、4回1死満塁から併殺くずれと暴投で2点。 |
結成試合を終えたあと、セネターズと帯同して神戸と明石に顔見せ興行に向かった。 「阪神タイガース昭和のあゆみ」では顔見せ興行とされているが、大阪朝日では神戸と明石の試合を球団結成試合の第二回試合、第三回試合と報じている。(右 大阪朝日新聞紙面記事より) 4月21日(神戸市民) セ軍 14x−8 タ軍 菊矢● 若林 御園生 4回表まで7−3でリードするも逆転負け 4月23日(明石公園) タ軍 2x−0 セ軍 藤村○ 藤村が4安打完封勝利 神戸市民球場はすでに解体されてなくなりました。 明石公園の野球場は同じ場所に新しい野球場が建てられています。 |
続いて、同じくセネタースと共に名古屋遠征に向かった。鳴海球場にノンプロの名古屋鉄道局を呼んで3試合行った。
4月26日(鳴海)
セネタース 6−1 名古屋鉄道局
タイガース 1−9 名古屋鉄道局 古川正男● 菊矢 藤村 森弘太郎(後に阪急入り)に抑えられた
タイガース 3−10 セネタース 若林先発
前座試合のアマチュア相手の対戦で若林を温存したため、名古屋鉄道局にコテンパンにやられた上にセネタースにも敗れてしまった。
参考文献
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史 (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
真虎伝 藤村富美男 (南万満 新評論 1996年)
七色の魔球 回想の若林忠志 (山本茂 ベースボールマガジン社 1994年)
日本プロ野球60年史 (ベースボールマガジン社 1994年)
朝日新聞 縮刷版 (1936年)
大阪朝日新聞 (1936年)
「阪神タイガース昭和のあゆみ」を最も正しい資料と据えながら、不足する試合を新聞から補い、他の資料で肉付けした形となっています。