桐生と新川球場


関西から一番遠い日本。関西人が一番知らない日本。

群馬県桐生市から栃木県足利市あたり、直通の列車がなく飛行場もない北関東の中央部は関西以西の日本人には最も馴染みの薄い土地といえる。実際に梅田周辺の飲み屋で調査を行った所、栃木県と群馬県の位置を正確に言える人は2割に満たない。

桐生市は奈良時代から絹織物が盛んな町で古くから栄えた街。街を歩けば織物の重要文化財などが点在する。

関西に馴染みの薄い桐生市だが、阪神タイガースの歴史を語る中では重要な都市と言える。それは桐生が野球の街・球都桐生だから。

タイガースの創世記に青木正一、皆川定之、三輪裕章が桐生中学から大阪タイガースに入団した。
桐生中学(現在の桐生高校)は高校野球の古豪。甲子園に1927年に初出場し、春夏あわせて26回の出場を誇る。
桐生中学を率いたのが「桐生のトウちゃん」稲川東一郎監督だった。桐生中学に進学するや硬式野球部を自ら設立し、卒業後に監督になり甲子園初出場、その後新聞配達などで生活費を工面しながら45年にわたり母校を指揮した。稲川夫人は裁縫塾を開設して野球に打ち込む夫を支えたという。

稲川の婦人が阪神電鉄からタイガースに出向し渉外を担当した早川二郎の姉だった。タイガース2年目の1937年に加入した青木正一、皆川定之は早川が稲川監督を通じてスカウトした選手だった。同じ年に捕手の塚越源市もスカウトしたが、塚越は明大に進学してタイガースには入団しなかった。1942年に入団した三輪裕章も稲川の教え子である。青木・皆川・三輪は戦後すぐに稲川が結成した全桐生で都市対抗に出場している。
群馬球界で顔が広く、高崎中学の三輪八郎をタイガースに推薦したのも稲川監督だった。この他にも群馬県出身選手の入団には稲川監督が少なからず関与していた。
桐生中学の甲子園出場をきっかけに桐生市の織物会社社長だった堀祐平らが私財を投げ出して1928年に桐生中学の東側に完成させた新川球場。この跡地が桐生市の中央公園です。
1928年という早期に地方都市にして野球場(当時は野球専用ではなかったが)があった事自体が珍しい。

太平洋戦争終了直後の1945年11月24日秋、日本プロ野球の復興試合として桐生で第二試合が開催されている。
実は神宮球場(11/22-23)と西宮球場(12/1-2)で4試合の東西対抗(第九回東西対抗)が行われる事となった。
ところが11月22日が降雨となり試合が開催できなかったので、代替試合を行う事となったが、神宮球場は使えないため桐生の新川球場で試合を行う事となったようだ。桐生を選定したのは鈴木竜二(大東京元監督)と池田豊(審判員)の出身地だったためで、創世記の職業野球界に桐生人脈が広がっていたのだと理解される。だが、22日に中止になった試合をいきなり桐生でやるだろうか。
1945年11月23日のプレイボール(光人社)のP298-299に、東西対抗戦の精算表と経費内訳が写真で掲載されている。
これによると、面白いことに神宮と西宮の入場料は6円で神宮と西宮での収益の合計値が全収益となっている。桐生の試合の入場料は収入として計上されていない。一方で経費では桐生の遠征費が含まれている。
実際の所、23日の神宮の試合を終えてから上野発の汽車で桐生に向かい桐生にて宿泊しているが、どうやら東京より食糧事情がよかったので「収益ではなく食事のために桐生に遠征した」と言うのが正しい考え方のようだ。前夜に腹いっぱい食事をした24日は東西対抗の前に地元チームとの試合をダブルヘッダーでこなしている。
東西対抗を企画した鈴木竜二は、代替で試合を決めただけじゃなく、もともと選手全員を桐生に泊めて食事させるつもりだったのではなかったのだろうか。戦後の食糧事情だけに。
タイガースは新川球場で1938年と1940年に試合を行っている。

中央公園に設置されている碑

 新川球場を偲ぶ
  稲川監督をはじめ
  沢山の野球人を
  育んでくれた
  この地に
  限りなき追憶をよせて

球都・桐生 永遠なれ。

2012.2.17 制定

げんまつWEBタイガース歴史研究室