入団契約を締結、一部には入団発表されたり練習に出た選手もいますが、入団時のトラブルにより阪神の選手といえない選手です。
関西大学出身の二人は関大OBの田中義一・中川政人がスカウトした。
田中は関大OBを中心とするチームを目指し、関大OBの本田竹蔵氏を監督にする方針であった為、二人は快く入団契約を締結した。しかし、電鉄本社側の意見から監督は六大学のOBを招聘する事となった。二人は約束が違う事に腹を立てて、新たに結成された阪急に入団する。
阪急からもらった1200円の契約金をタイガース事務所に持ち込んで、田中義一常務の机の上にたたきつけたと言う。[1]
西村正夫は後々まで阪急の有力なOBとして活躍したが2002年に亡くなった。
球団創立時の 1935年にタイガースに入団するとして契約が成立し、連盟に登録申請して承認を得た。このため2人は職業野球連盟の登録選手名簿にも名前をつらねる。しかし、法政大学から中退を反対された事で、二人揃って一方的に契約を解除した。[1]
職業野球連盟側からは当然の結果ながら除名処分となり、これが日本プロ野球選手の処分第一号。契約解除に対しては親権者からの違約金を徴収する事で事態は解決した。
滝野は即戦力の二塁手として期待されていたため、1人内野手が足りない状況で開幕を迎える事となった。景浦や藤村を内野手として起用したが、結果的に開幕直後の成績不振から森監督が更迭される事につながった。
西京商 出身 48年11月6日 大陽ロビンズと二重契約
甲子園で活躍したスター選手で、タイガースと夏の甲子園大会の直後に入団契約した。その後、話を持ち掛けた太陽ロビンズの方が契約金が高く、父親が翻意して阪神との契約書を破り捨ててしまった。
阪神側に 破り捨てた契約書の写しがある事が判明すると、今度は阪神の9月3日の契約書に対して、9月1日付けの契約書を偽造する。偽造が功を奏して翌年2月に大陽入りしたのだが、ルールを破っての入団でアマチュア球界での記録はすべて破棄されてしまった。[3]
故障者の多発によって1948年の少数精鋭主義が完全に失敗に終わった球団は、翌年即戦力選手の大量確保に乗り出す。法政大のエースだった江藤は大洋漁業に入社後も都市対抗野球などの活躍でノンプロ球界を代表する投手だった。タイガースは江藤と3月25日に契約を締結し、4月2日に背番号「22」で入団を発表したが、以前から入団交渉を進めていた南海ホークスとの間で二重契約問題が起こった。4月3日に南海は本人名で契約無効の提訴状を連盟に提出し5月2日に江藤の登録を申請したが、すでに阪神の選手として登録されていたため二重に登録できないとの問題になった。南海はエース別所が読売に引抜かれたので、何が何でも江藤が必要だった。
結局、9月14日に阪神から南海にトレードする形で南海に入団したが、49年は公式戦に出場できず。[2]
別府星野組で社会人野球で活躍した。49年の都市対抗野球後に一旦タイガースと契約した。
1950年に誕生する毎日オリオンズは毎日新聞社の力により社会人野球界から選手を集めようとした。その際に別府星野組自体が毎日オリオンズの母体となった事と、阪神の編成を牛耳っていた若林監督が毎日に移籍した事によりリーグ分裂の狭間で毎日オリオンズに入団する事となった。
高校球界では植村(大毎)木村保(早大−南海)と並ぶ三羽烏と呼ばれていたアンダースロー投手。
プロ11球団のスカウトが太田の所に集結していた。実は西鉄が解禁前に契約していたのだが、解禁前に契約する事が問題なので隠し続けていた所にタイガース青木一三スカウトが接近する。毎日3度、家に押しかけて家族と顔なじみになり、西鉄の契約金80万円に対して120万円を提示して二重契約を締結した。
西鉄側のルール違反は明白であったが、タイガース田中義一代表が西鉄に遠慮してお蔵入りとなった。 [4]
高校3年生の55年春に阪急と入団契約を締結したが、その後に境高校の代表選手として競技会に出場してしまった。学校と野球部はこの不祥事が表に出て連盟から制裁を受ける事を恐れた。
阪神・青木一三スカウトが勧誘に行った時、「阪神に入団する事となって阪急との解禁前の契約の件が表に出なければ好都合」と考えた学校側の意見で二重契約。
タイガース側は入団契約を正当とし、米田に背番号「41」のユニフォームを着用させて56年1月10日の甲子園練習に参加させた。結局、井上登コミッショナー裁定で阪急入団となった。[1][2][4]
米田は75年シーズン中に一軍出場が減ったことから移籍を願望し、阪神に移籍。実に20年ぶりに復帰した。
作新学院時代から超高校級の速球投手として注目されたが、早慶戦にあこがれて早稲田大または慶応大への進学だけを熱望していた。この年、阪急への入団を拒否したが慶応大への受験に失敗、法政大へ進学した。受験失敗が後々の頑なまでの巨人志望に結びついたと本人は語っている。
大卒後、クラウンの1位指名を拒否。クラウンの青木一三代表は江川の獲得など頭になく、西本聖との交換トレードを前提のクラウン入団を読売・長嶋監督に打診していたというが、クラウン関係者の勇み足で入団交渉が失敗に終わった。
その後、政治家・船田議員の策により作新学院職員の身分で渡米、ドラフト前日に巨人入団を発表した「空白の一日事件」を引き起こした。結局、読売はその年のドラフトをボイコットしたため、ドラフトでは阪神・南海・ロッテ・近鉄と4球団が競合したが、小津球団社長以下の方針で参戦した阪神がクジを引き当てた。
拒否する姿勢の江川に対し、金子コミッショナー裁定によって読売・小林繁とのトレードを実施する約束で阪神と入団契約、背番号「3」が発表された。→江川事件 [2][3]
参考文献
改訂履歴
Rev.1 2008.5.1